犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第8章

2007-12-28 22:59:21 | 読書感想文
第8章 性犯罪者対策・去勢と監視

新たな概念の誕生が問題を必要以上に面倒臭くしてしまうことがある。個人情報保護法は「プライバシー」の概念を処理できず、多くの無用な混乱を引き起こしてきた。犯罪者の前科前歴の取り扱いも同様である。性犯罪者の性癖はなかなか治らず、再犯率も高い。実証的なデータは十分に揃っているが、それでも問題はスッキリと収まらない。性犯罪者のプライバシー、情報コントロール権、名誉権、偏見による社会復帰の困難、周囲の無理解による更生への障害といった単語を並べられれば、論点は無限に拡散する。

性犯罪者は、なぜ他の前科者にもまして前科前歴を秘匿しようとするのか。それは、単に恥ずかしいからである。恥を恥と知る、これは疑いようのない真理である。他方、性犯罪の被害者のほうも、恥ずかしさのあまり誰にも相談できずに被害を拡大させてしまうことが多い。これも人間の恥に関する倫理を示している。この2つの恥の概念は、見事に正反対を向いている。性犯罪者が感じる恥の概念は、恥ずかしいことを恥ずかしげもなく行ったところが、やっぱり恥ずかしかったのだから、恥じなければならないという話である。他方、性犯罪被害者が感じる恥の概念は、自分は何も恥ずかしいことなどしていないのだから、恥ずかしいことをされて恥ずかしいと感じても、やはり恥じる必要はないという話である。

性犯罪者は多くの場合、被害者に謝罪文を書き、それを裁判で有利な情状として主張する。ところが、強制わいせつ罪で刑務所に入った者が出所後1年未満で再び刑務所に戻る割合は、43パーセントにも上っている。ここで何とも間抜けなのは、最初の犯罪における謝罪文である。再犯者が「今度こそ本当に最後にします」と決意するならば、遡って歴代の被害者に改めて謝罪して回らなければならない道理である。この謝罪ができないならば、目的刑は応報刑に対してその正当性を証明できない。加害者の更生が被害者の立ち直りにもつながるというならば、再犯によって何よりも馬鹿にされているのは、過去の被害者である。被害者の「思い出したくない」という心情を逆手に取って謝罪を免れるのは、「また犯罪を繰り返します」と宣言しているようなものである。

犯罪者の権利の象徴が「ミランダ」ならば、被害者の権利の象徴は「ミーガン」である。1994年の夏、米ニュージャージー州に住む7歳の少女ミーガン・カンカが、35歳の性犯罪の前科がある男性に乱暴された上で殺害された。これが性犯罪者を監視するミーガン法に制定に結びつき、今では米全州で性犯罪者の通知システムが完成している。もちろん、伝統的な人権論からすれば、ミーガン法は天下の悪法であり、「大事件は悪法を作る」の例だとされる。しかし、伝統的な人権論がアーネスト・ミランダを担ぎ上げていた構造は、性犯罪者監視論がミーガン・カンカを担ぎ上げた構造と全く同じである。現に世論の支持を得られなければ、その時点では確実に負けである。