犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

経験者にまさる専門家はいない

2007-12-29 21:05:23 | 時間・生死・人生
法律学では、条文の一言一句をめぐる解釈論争が起きると、必ず言われる台詞がある。いわく、「立法趣旨に遡れ」。「立法者意思に立ち返って考えよ」。ここのところ解釈論争が起きているのが危険運転致死傷罪の条文であるが、この立法の契機となったのが、平成11年11月の東名高速道路での追突事故である。酒酔い運転の大型トラックが井上保孝さん・郁美さん夫妻の乗用車に追突し、2人の幼い娘さんが焼死した。立法趣旨に遡り、立法者意思に立ち返るというならば、法律家がこの事件を忘れては本末転倒である。国民主権、民主主義と言いながら、都合のいい時だけ「素人大衆の無知」を持ち出されても困る。

何事も、物事は経験した者にしかわからない。犯罪被害は特にそうである。周囲の人に「お気持ちはわかります」と言われたところで、正確に返答しようとするならば、「アンタにわかってたまるか」と言うしかない。それでは、犯罪被害という現象を扱う法律家の役割は何か。それは、自分自身は犯罪被害を経験していないことを謙虚に受け止め、最大の専門家は被害者本人であることを認め、その絶望の地点を共有することである。被害者を1つのグループとして客体化し、専門用語だらけの理論を組み立て、それに被害者を当てはめて立ち直らせようとするのは、かなり傲慢な態度である。修復的司法の理論が支持を得ないのも、この無神経さが被害者の倫理観を逆撫でするからである。

井上保孝さん・郁美さん夫妻には、その後に3人の子どもが産まれ、周囲からは「2人の生まれ変わりだね」との祝福の声が寄せられている。しかし、郁美さんはそのような声を聞くたびに、「そうじゃない。私たちにとっては、いつまでたっても2人足りない」と心の中で繰り返しているそうである。専門用語も何もない。それにもかかわらず、どのような刑法学の大家、刑事政策学者や犯罪学者といった専門家よりも、物事の本質を捉えている。経験者であるから当然と言えば当然であるが、現代社会はこの簡単なことをなかなか認めようとしない。法律学のみならず、哲学も同様である。しかしながら、哲学とは、人間が生きて死ぬこと以外の何物でもない。

犯罪被害者を客体化すれば、それは「特殊で異常な体験に直面したかわいそうな人達」として括られる。そして、被害者らの主観や感情とは別の世界で、客観的な法理論が動いているものと考えられている。しかし、主観的に異常な体験を経てこそ自然に客観性が浮かび上がるのであって、特殊を恐れる普遍は偽物である。極端を知ってこそ自動的に中庸が定まるのであり、最初から中庸を目指してもピントがぼけてしまう。難解な哲学用語を物知り顔で振り回す人間よりも、最愛の娘を亡くした母親の一言にすべてが集約されていることは不思議ではない。

悲惨な事件や事故が起きるたびに語られる「命の重さ」という単語も、何となく地に足が着いておらず、使い古されている印象である。小学校の校長先生のお説教の域を出ない。「命の重さ」という単語で伝えたいことをもう少し正確に述べるならば、「生死の大切さ」と言うのが適切であろう。生死の大切さには、「生の大切さ」と「死の大切さ」が含まれ、特に後者が重要である。現代人の多くが「死の大切さ」と聞いて自殺を連想するようでは、「命の重さ」と聞いても心に響くわけがない。死の問題を遠ざけたまま命の重さを論じることの不毛である。この意味でも、専門家と言われる人たちは、実際に2人の最愛の娘を一度に亡くした母親の言葉の前には降参するしかない。