犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第2章

2007-12-04 22:09:41 | 読書感想文
第2章 犯罪者の更生計画は幻想

神戸市児童連続殺傷事件の少年Aこと酒鬼薔薇聖斗は、なぜ被害者を差し置いて更生に絶対的な価値が置かれなければならなかったのか。なぜ彼は少年法によって堅く守られ、顔写真や本名を公開することは更生を阻害する絶対悪とされたのか。このような疑問の発生は、人間存在において不可避である。人間は歴史の中に必然的に投げ込まれ、新たな歴史を作っていざるを得ないからである。その意味で、「我々は苦い歴史の経験から学び、ついに真理を発見した。それが少年法の精神である」といった言い回しは、歴史の本質において背理である。神戸市児童連続殺傷事件も、新たな苦い経験の1ページに加えられざるを得ない。これが人間の歴史性である。

応報刑から目的刑へ、この歴史の流れは、刑法学における古典学派(旧派)から近代学派(新派)への流れに由来する。かつて、19世紀後半の社会・経済の急激な変動は、犯罪の増加をもたらし、理性的な人間像を前提に犯罪や刑罰を観念的に唱える古典学派への批判を生んだ。どんなに良心だ倫理だと高尚なことを説いても、「腹が減っては死ぬだろう、死ぬくらいなら万引きするだろう」というもっともな理屈を抑えることはできない。そこから、実証的方法によって犯罪を捉えて対処しようとするロンブローゾ(Cesare Lombroso、1836-1909)からリスト(Franz Eduard von Liszt、1851-1919)に至る近代学派が登場してくる。

近代学派は、ベンサム(Jeremy Bentham、1748-1832)やイェーリング(Rudolf von Jhering、1818-1892)の社会功利主義的目的思想を継承し、刑法における目的思想を重要視している。これは古典学派への強烈なアンチテーゼとなった。古典学派が前提としていた理性的な人間像が何らの説得力を持たなかったからである。社会の混乱期において、この新たなカテゴリーが広範な支持を得たことは想像に難くない。刑法の応報刑化に反対し、法益保護と法秩序の維持を目的とし、社会を犯罪行為から防衛しながら犯罪者による再犯の予防を重視すると言われれば、非常に説得力がある。刑罰とは行為者の再犯予防を目的とするものであり(特別予防論)、刑罰によって社会を犯罪から防衛することが可能となる(社会防衛論)。

被害者の復讐感情を前近代的なものとして軽視すること、これは実証的方法・社会功利主義的目的思想を取り入れた近代学派に端を発している。そして、犯罪者の改善更生・社会復帰を目的とする「教育刑」を至上命題とすれば、当然ながら被害者は邪魔な存在となる。20世紀後半になって、日本では「我々は被害者を見落としていた」と語られるようになったが、19世紀後半には、このフレーズは全く逆の意味で語られていた。「犯罪を生み出すのは社会であって、犯罪の責任は社会にあるのだ。犯罪者自身はむしろその被害者である。我々は真の被害者を見落としていた」。

本当の被害者、真の被害者は、むしろ犯罪者自身である。犯罪者は社会の犠牲者だ。このような発想の転換はインパクトがあり、熱狂的に受け入れられたことも想像に難くない。そして、適切な教育によって犯罪者を更生させ、善良な市民として社会に復帰させる教育権論が真実だということになれば、最初の犯罪被害者は故意的に無視するしかない。真の被害者ではないからである。人類が数々の苦い歴史の経験から学び、発見したはずの真理が、再び苦い歴史を作り出す。これが歴史である。