犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

一番怖い質問

2007-12-07 23:57:55 | 時間・生死・人生
刑事事件を扱う裁判官にとって、一番怖い質問は何か。それは、「もしあなたやあなたの家族がこのような目に遭ったらどう思うのですか」という質問であろう。裁判制度の生命線は客観的な法的安定性の維持であるが、この質問はその急所を見事に突く。それゆえに、客観性を重んじる実証科学は、この問いを答えるに値しないものとして軽視する。法律学の世界においては、「客観性がある」といえばプラスイメージであり、「主観的である」といえばマイナスイメージである。すなわち、主観的な問いとは単に感情的であり、恣意的であり、法律的な問いとしては劣っているものと位置づけられる。

しかしながら、答えるに値しない問いであるならば、本来答えようとすれば簡単に答えられるはずである。それすらも答えたくないというのであれば、単に答えられないだけの話である。客観的な法の意味を探っているはずの裁判官が、ついうっかりと「本当のところは被害に遭った方にしかわからないと思います」などと述べてしまえば、法治国家は大変なことになる。客観よりも主観が優位であるならば、裁判などというシステムは維持できなくなり、法の客観性はあっという間に崩壊するからである。そこで裁判官は、被害者本人よりも物事がわかっている振りをしなければならない。そうしなければ裁判の権威は台無しであり、誰も判決に従わなくなるからである。

近代法治国家が至上命題とする法的安定性とは、客観的な予測可能性である。そこでは、民事法的には「権利能力平等の原則」「所有権絶対の原則」「私的自治の原則」といった大原則が掲げられ、さらに私的自治の原則は「契約自由の原則」「過失責任の原則」を絶対的な真理として掲げる。刑事法的には「罪刑法定主義」である。ここには、「起きた結果が重大であるというだけで結果責任を問われては、人間は毎日安心して行動できない」という大前提がある。結果責任を負わされることへの不安が客観性信仰の最初の動機であり、その信仰を維持するための条件である。

ところが、「もしあなたやあなたの家族がこのような目に遭ったらどう思うのですか」という質問は、この条件を正面から破壊する。人間は、誰がいつ犯罪に巻き込まれるかわからない。犯罪被害は、常に取り返しのつかない形で突然に人間を襲う。「いつ犯罪被害に遭うかわからないから、人間は毎日安心して行動できない」、この不安は理屈ではなく直観である。近代法治国家の理念がいかに結果責任の不安を指摘し、客観性を重視したところで、理由をつけてから不安になる人はいない。不安とは客観ではなく、主観そのものである。刑法の厳罰化に反対する理論は、厳罰を唱える人に対して、「あなたもいつ自分が加害者の側に回るのかは分からないのに、不安ではないのですか」と問うのが常である。しかしながら、不安になれと命じられて不安になることなどできない。

法治国家がどんなに主観を軽視し、感情など相手にもならないといって切り捨てようとしても、「裁判長、もしあなたやあなたの家族がこのような目に遭ったらどう思うのですか」という質問はこの世から消えない。そして、この問いは客観性の限界を示し、常に客観性の幻想を見破ろうとする。