犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島義道著 『「時間」を哲学する』

2007-12-30 20:45:50 | 読書感想文
子どもの頃、初めて年賀状というものを書くときに、誰しも疑問に思うことがある。年末に書いているのに、なぜ「今年もよろしくお願いします」なのか。まだ年が明けていないのに、なぜ「明けましておめでとうございます」なのか。大人になってもこの疑問から抜けられないのが哲学者という人種である。これは非常に生きにくい。いい年してこの種の疑問を周りの人々に語ろうものなら、間違いなく変人扱いされる。そこで、哲学者は哲学者だけで集まって、バートランド・ラッセルの「世界五分前仮説」について論文を書き、ますます世間からは何をやっているのかわからないと言われるようになる。

子どもが親に、なぜ「『来年もよろしくお願いします』と書いてはいけないのか」と問えば、恐らくは「配達されるのが来年だから」という答えが返ってくる。そして、多くの子どもはそれで納得して、社会のルールを覚える。これが、大人になるということである。しかし、哲学者という人種はいつまでも子どもである。お正月が来るたびに、一応この世の風習として「今年もよろしくお願いします」と書くが、やっぱり納得できていない。配達されるのが来年であるというならば、それはどこまでも「来年の今年」であって、やっぱり「今年の今年」ではないではないか。こんな問題が頭から離れなければ、やっぱり日常生活がしにくい。

哲学者が生活しにくいのは、このような問題が、非常に面白いものと感じられてしまうことである。哲学的には大問題でも、世間的にはどうでもいい問題である。従って、立派な大人がこのような疑問を公の場で語ろうものなら、呆れられるか、真面目にやれと怒られる。そして、そんな下らない問題を考えているなら、国際的な紛争・飢餓・人権問題を考えたらどうか、ボランティアでも参加したらどうか、骨髄バンクへの登録や臓器提供でもして他人の役に立ったらどうかとお説教される。そこまで行かなくても、格差社会の解消やワーキングプア対策などの緊急の問題に比べれば、子どものような問題に関わっていられるのは贅沢だと言われる。さっさと年賀状を書いて大掃除を手伝えと言われる。こう言われてしまえば、返す言葉もない。全くその通りだからである。

こうして、現代社会では、哲学は役に立たない学問の典型であるとされている。時間とは何かについて考えているのであれば、時間を上手く節約し、細切れの時間を有効に使うことを考えたほうがいい。社会人は、待ち合わせの時間に遅れないことが大切である。全くもってその通りである。やはり哲学的な疑問というのは、社会に向けて問題意識を共有させるような種類のものではない。この世で適当に生活するには、毎年大晦日が来るたびに、「今年は良くない年でしたが、来年は良い年になりますように」と言っているのが無難である。資本主義社会の中で給料を得ながら深く考えるということは非常に難しい。

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