犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

飛鳥井 望著 『PTSDとトラウマのすべてがわかる本』

2007-12-26 20:31:53 | 読書感想文
PTSDのチェックリストというものがある。例えば、「今の自分が情けない」「自分を責めてしまう」「人が信じられなくなった」といった項目が沢山あり、それに対して3段階や5段階で回答する方法である。近年は「心の傷」というメタファーは自然に用いられるようになったが、これを肉体の傷と同じように測ろうとすると、あっという間に限界に直面する。痛みや痒みはどう頑張っても自己申告であり、ウィトゲンシュタインが述べるところの歯痛の例を待つまでもない。もともと我慢強い性格の人であれば、その自己申告の結果、「心の傷は軽い」との結果は出やすい。また、多額の保険金を得ようとすれば、ばれない範囲でオーバーに自己申告をすればよい。

民事裁判においてこの「心の傷」を主張しようとすると、これまた大変な壁が待ち受けている。損害賠償のカテゴリーは、肉体的な傷を前提に考案されているため、これを心の傷にそのまま当てはめると、かなり変なことになる。第1の問題は「相当因果関係」である。肉体的な傷であれば、事件と疾患との時間的間隔が短ければ短いほど相当因果関係が肯定されやすく、時間的間隔が長くなるほど相当因果関係は肯定されにくい。これは、関節が曲がらなくなった、臓器の数値が異常になったといった症状を見てみればわかる。これに対して、精神的苦痛は客観的な時間の経過を数字では割り切れない。被害者が事件を忘れようと必死に努力して、鬱状態に陥ることを何とか抑えてきたのに、ようやく社会復帰したところが「浦島太郎状態」である。そこで、初めて逃れられない現実が迫ってくることは容易に想定できる。これを、「事件から時間が経過しているので相当因果関係がない。鬱状態は認められるが、事件との関連はない」と結論付けるのは悪い冗談である。

第2の問題は「症状固定」である。法律的に損失を計算するためには、その損害を確定しなければならない。そこで、これ以上は良くならないであろうという症状固定状態を仮構して、そこを基準に休業損害と逸失利益、及び傷害慰謝料と後遺症慰謝料を区別して計算することになる。これも肉体的な傷の場合には、関節が以前の状態には戻らない、臓器の数値の回復は望めないといった判断がつきやすい。これに対して、精神的苦痛の症状固定については、このような基準が用いにくい。仮に、鬱状態の改善の見込みが少しでもある限り症状固定ではないと言うならば、これは永久に症状固定との評価がなされないことになる。逆に、一生涯にわたって鬱状態を抱えて自殺の不安を持ち続けている状態を症状固定であるとすれば、これは自殺を強いるに等しい。このごくごく当然の帰結は、頭の良い人が論理的に抽象概念を切り回すことによって、かえって見落とされやすくなる。

「相当因果関係」や「症状固定」、このような合理的で実用的な概念は、その実用性ゆえに逆に人間を苦しめることがある。人間はそれによって他の考え方が見えなくなり、瞬間的な違和感を捉え損なうからである。心の傷を体の傷と同じように少しでも数値化し、一義的で客観的な基準を得ようとするならば、その判定のための技術はますます精緻になる。こうなって来ると、判定基準さえ確立すれば、個々の人間はそれにあてはめるための材料に過ぎないといったカテゴリーができ上がってしまう。判定基準は客観的で一義的であるが、主観的なものは個人差があって不明確であるとして、できる限り主観的なものは排除しなければならなくなるからである。「心の傷」という概念は、それを体の傷に並列するための手段であったはずだが、この手段が精緻になって万能になると、そもそも人間に心があることなど必要なくなってくる。これも恐るべき逆説である。

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