犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

科学的世界観

2007-12-25 22:28:35 | 時間・生死・人生
科学的世界観は、社会科学を志す人間にとっては非常に魅力的である。この世のあらゆる事象を客観的に数字に直すことができるという理論は、人間を誘惑する。数字でない文字も、社会科学の実証性を取り入れれば、すべて論理式に直すことができそうである。日常言語は無理でも、法律の条文だけは完璧な美しい体系が作れそうである。このような人間のあくなき欲望は、論理実証主義から法実証主義を生み、果ては概念法学に至った。

科学的世界観に立つならば、すべての現象は法則に従って生起しているものとされ、人間も同様であるとされる。すべては脳内の神経細胞の動きによって説明し尽くされる。自然法則は我々の思惑とは無関係に存在するものであり、我々は自然法則に抵抗したり、人間の思惑で自然法則をねじ曲げたりすることはできない。従って、凶悪犯人が事件を起こしても、それはそのようなことが起こったというだけの話になる。被害者が悲しんでいることも、脳内の神経細胞の動きによるものであって、単にそれだけの話となる。

科学的世界観を取り入れた法律学は、人間の主観を扱うことをしない。人間の主観的経験などは数字にできず、科学的には問題外だからである。法律学は科学的世界観にならって、この人間の主観を、客観に付随するものして位置づけた。それは刑法の条文における「故意」「過失」である。これは、純粋な人間の主観ではない。「主観的構成要件」とは、「客観的構成要件を認識していること」である。論理的な順番としては、どこまでも客観が先であり、主観が後である。被告人側の主観面は、かくして実証的な論理式に取り込むことに成功する。これに対して、被害者側の悲しみといった主観面は、相変わらず論外とされる。

犯罪被害者の見落としの原因を1つ1つ挙げて行くならば、実証性重視の経験主義科学は避けては通れない。犯罪被害者の問題は、科学的世界観による客観的モデルを採用する一歩手前で立ち止まることによって、初めて見えてくる種類のものである。科学的法則、統計的真理によっても被害者の問題を表面的には捉えることができるが、それがこの世の全てではない。法律の条文によって完璧な美しい体系を作ろうとする法律家の野望は、同じ刑法を扱っていながら、犯罪被害者の関心とは全く接点がない。

科学的世界観は、相変わらず「心の傷」というメタファーを使って、問題を処理できる形に変形しようとする。しかしながら、体の切り傷や刺し傷は目に見えるものであり、数学的に大きさや長さを計測できるが、心の傷はそのようなことができない。心の傷といった比喩的表現は、安易に乱用されれば、体の傷と同等に治療しうるような錯覚を生じさせてしまう。ここは現代人の弱いところである。

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