犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

三好由紀彦著 『はじめの哲学』

2007-07-10 18:17:42 | 読書感想文
法律学は、哲学的な問題をすべてカッコに入れて先に進んでいる。人間の生死の問題を扱っていることによって、哲学的な生死の問題を忘れている。その最たるものが、民法の遺言の規定である。遺言に関する重要な判例法理としては、「自筆証書の押印は印章に代えて拇印で足りる」、「遺言全文がカーボン紙の複写で記載されたとしても自筆だといえる」、「遺言書の本文に押印がなくても封筒の封じ目に押印があればよい」などといったものが挙げられており、民法学者によって研究されている。そして裁判の遂行を担う法律家は、このような判決の意義と射程を確認することが法治国家における義務となる。

これらの法律的な議論は、学問の細分化によってさらに精密になってゆく。そして、現在では予防法務という分野も発達し、老人が元気な間に適切な遺言をしておくことは一種の義務であるとも言われている。自分の死後において、その親族の間で相続をめぐって争いや不和が生じることは、その老人が遺言を書いておかなかったことに基づくものだからである。本田桂子著『その死に方は、迷惑です』(集英社新書)という本も売れている。このような法律学の議論からすれば、哲学的な生死の問題などは全く役立たずで、抽象的な議論であるとされるだけである。非実用的なことをあれこれ考えている暇があれば、さっさと遺言を書いておけというのが法律学からのものの見方である。

このような法律的な議論はもちろん必要であり、重要であることは疑いがない。しかし、このような法律的な死生観で固まっている法律家に、生死の問題をすべて扱われてはたまらない。法律学は、生死を説明して先に進んだ学問ではなく、生死が説明できないことを前提として先に進んだ学問である。被害者遺族が刑事裁判に参加し、自ら被告人質問や求刑などの訴訟活動を行うことを認める被害者参加制度の導入が進められているが、法律家の常識の下では、この遺族の声がどれほど伝わるかは疑わしい。法律学は、自らが法律の条文によって人間の生死を完璧に説明していると自負して、この世の役に立たない哲学を見下そうとする。しかし、この世の役に立つ法律学は、あの世のことまでは語れない。

三好氏が淡々とわかりやすく書いている相続と遺言書の例は、哲学者からすれば笑い話であるし、法律家からすれば背筋が寒くなる話である。相続法の研究をしている民法学者は、どうしても自分自身の相続にだけは立ち会えない。自分が人生を賭けて書いた論文や集めた本も、残された親族にとって意味がなければ、すぐに捨てられる。それでも民法学者は、遺言に関する重要な新判例が登場することを望みつつ研究に励む。それは、学問的に興味深い題材を提供してくれるような死者を望むことである。そして、そのような相続と遺言の研究に熱中している間は、その民法学者は自分がいずれ死ぬことを忘れていられる。相続の話は、笑える人には笑えるし、笑えない人には笑えない。

風化の防止は言語化にかかっている

2007-07-09 17:35:26 | 言語・論理・構造
事件の風化を防ぐために、人はその体験を語り継ぐ。しかし、それでも事件の風化はなかなか防げない。ここで問われてくるのは、体験の言語化という作業に自覚的であるか否かである。体験を語り継ぐことは、「語り継ぐ」というまさにそのことによって、言葉によってなされるしかない。言語の寿命は、人間の寿命をはるかに超える。

事件を直接に体験していない人にとっては、語り継ぐことへの強い意欲を持つ動機がない。これは必然的である。そもそも体験していないものは、それを忘れることができない。覚えていないものは、忘れることができないからである。事件を直接に体験していない人の体験は、「事件の体験を聞いたこと」である。それは元の事件ではなく、事件の話を聞いたという体験である。これは間接的であり、時代が進めば無限後退に陥る。そして、膨大な言語に混じって自然淘汰される。

風化する言葉と風化しない言葉との違いは何か。それは、精緻な言語化という作業に自覚的であるか否かの違いである。偉大な哲学者が残した言葉は、今日まで2000年以上も語り継がれている。気が遠くなるほどの膨大な言葉が消え去った中で、哲学者が残した言葉は、そのままの形で語り継がれている。これは、その言葉が時空を超えた普遍を指し示していることの表れである。

犯罪被害が特殊な経験であることを前提としてしまうと、それは必然的に普遍性を失う。人々に理解と共感を求めることを前提として語り継ごうとすると、その言葉は風化する。「我々1人1人が他人事としてではなく、自分自身のこととして受け止め、意識を変えていきましょう」と言われるや否や、それは風化する。風化しないものとは、必然的にすべての人間に等しくあてはまってしまう事実である。それは感情ではなく、論理である。感情は風化するが、論理は風化することがない。

事件の風化を防ぐために必要なことは、体験の言語化という作業に自覚的であることである。時代を超えた言葉は、深く考え込まれて、深く思索されたその先にある。自問自答による精緻な言語化は、内面的でありつつ分析的であり、かつ批評的でなければならない。無意識を意識に浮かび上がらせるとき、それは後から付いてきた言葉を瞬間的に捕らえる形になる。これは、政治的な主義主張の言語とは対極にある。我々は新たな選挙が始まれば、数年前の選挙運動の記憶などどこかへ消えてしまう。選挙カーから発せられる政治的な言葉は、あくまでも軽い。

犯罪被害がいつまでも語り継がれるために必要な言語は、特殊な経験であるがゆえに普遍を指し示す言語である。それは、名付けられない感情にどこまでも執着し、立ち止まってこだわり、言語化したところに表れる。これは、語り得ぬものの範囲を少しでも狭め、語り得るものの範囲をほんの少しでも広げるものである。偉大な哲学者が残した言葉がいつまでも語り継がれているのも、このような理由によるものである。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第11章

2007-07-08 16:13:41 | 読書感想文
第11章 街頭署名

「司法とは、社会秩序維持のためだけではなく、被害者のためにもなければならない」。このような主張が犯罪被害者側によって、近代刑事法のシステムへの反省として述べられていることは皮肉である。近代の刑事法は、全体主義のファシズムを排して、個々の人権を保障する建前であった。日本国憲法にも刑事訴訟法にも、明らかにそのようなことが述べられている。ところが、現実には社会秩序維持という全体主義によって、被害者という個人を見落とす結果をもたらした。近代刑事法のシステムは、それ自身の中に論理的な矛盾を含んでいることが明らかにされたということである。

人権思想とは、一人残らず個々の人権を普遍的に保障するものである。そうだとすれば、犯罪被害者は特殊な経験をした人間であって、一般化できないという考え方は、人権論の破綻である。確かに犯罪被害は特殊な体験であり、その苦しみは特有である。しかし、同時にその倫理的な苦しみの内容は、人類共通の困難な課題そのものを示している。運良く犯罪被害に直面していない人間も、いつ被害者になるかもわからないという意味もあるが、問題はそれに止まらない。犯罪被害という特殊な体験においても、その問題の解決の糸口は、人間が生きて死ぬという万人に共通の普遍的な事実からスタートしないことには始まらないという意味である。人権論に基づく近代刑事法のシステムは、この哲学的な問題を解決することができなかった。

犯罪被害者は、他の誰でもないこの自分がその人生において犯罪被害を受けてしまったという事実に直面する。このごく当たり前のことが、難問の出発点である。他人は自分の代わりに被害を受けることはできないし、自分は他人の代わりに被害を受けることはできない。人間の存在とは、その存在の唯一性・固有性・絶対的な主観性を伴う。犯罪被害を受けることとは、普段は忘れているこの奇跡と恐怖の前に立たされることである。このような地点から見てみれば、人権論に基づく近代刑事法のシステムは、そもそも犯罪という現象を裁くのには不適格なカテゴリーであることがわかる。

司法とは、社会秩序維持のためだけではなく、被害者のためにもなければならない。これは、論理的にごく当然のことである。この世のあらゆる制度は相対的であり、被害者が長年にわたって見落とされてきたことも相対的である。もし岡村勲弁護士が犯罪被害に遭っていなければ、全国犯罪被害者の会(あすの会)は結成されておらず、日本では今でも被害者は見落とされて続けていた。

科学的、客観的な近代刑事法のカテゴリーから、個々の主観的な犯罪被害への着目に動いてきたとすれば、法律学はようやく自らの無力を認め、哲学的な問題に正面から取り組むようになったということである。これはカオスであり、パンドラの箱を開けることに等しい。しかしながら、実際にこの世の存在の謎の解明が不可能であり、少なくとも法治国家の理屈などで説明し尽くされるものではないならば、ごくごく当然の結論に戻っただけの話である。

犯罪とは言葉である

2007-07-07 13:05:53 | 言語・論理・構造
ウィトゲンシュタインは、自分の理論によってすべての哲学的な問題は根本的に解決されたと述べた。これが本当であれば、この世には「法律」の問題は沢山あるとしても、「法律学」の問題は完全に消えているはずである。学問にする必要がないものをわざわざ学問にして、大騒ぎしているだけだという話である。ウィトゲンシュタイン哲学には、法律学の理論を根底からすべてひっくり返されるような恐ろしさがある。

例えば、法律家は、この世に「道路交通法違反」という犯罪が存在することを疑っていない。そして、プロの裁判官が厳しい顔をして「道路交通法違反」と言えば、素人の被告人には手も足も出ないように思われている。しかし、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論からすれば、裁判官と被告人には全く差がない。どんなに偉そうに座っている裁判官にとっても否定できないことは、人間であれば誰にでも子供の時代があったということである。そして、人間は赤ちゃんの時には言葉を知らず、両親を初めとする周りの人間によって言語を習得してきたということである。

どんなに頭の良い裁判官であっても、子供の頃に、いきなり「道路交通法違反」という単語を理解することはできない。まずは「みち」という簡単な物質名詞を覚えることから始まる。そして、「どうろ」という難しい物質名詞を覚え、さらには「道路」という漢字も覚え、それと前後して「交通」「違反」という抽象概念を覚えていく。このような語彙が確立して初めて、人間は「道路交通法違反」という言葉を理解することができる。裁判官であろうと被告人であろうと、この言語習得の時間的な先後関係には全く差がない。このような端的な事実は、人間である以上誰しも否定することができない。裁判官や被告人といった肩書きばかりを見てしまうと、言葉を話している動物としての人間が見えなくなる。

ウィトゲンシュタイン哲学からすれば、すべての犯罪は、単に言葉である。人間は「道路交通法違反」という言葉を理解して初めて、この世に「道路交通法違反」という犯罪を存在させることができる。この世に人間の言葉を離れて、「道路交通法違反」という物質なり物体が客観的に存在するわけではない。人間が言葉によって罪を成立「させる」ことにより、初めて罪は成立「する」ようになる。法律家は、この世に「道路交通法違反」という犯罪が存在することを疑っていないが、存在しているのは言葉だけである。条文は言葉であり、犯罪は言葉である。

養老孟司著 『死の壁』 続き

2007-07-06 17:38:33 | 読書感想文
養老氏の指摘は、実に単純である。現代人は、「自分は死なない」と思っているから、バカの壁ができる。従って、バカの壁と死の壁は同じものの別の壁面である。

いじめ自殺や過労死が社会問題となると、現代人は大上段の視点から、「生命の重さについて考え直すべきである」、「生命の大切さを教育すべきである」という意見で一致する。ところが、実際にこの通りにやっていたら、下手に哲学的問題に足を突っ込むことになり、学校は授業にならないし、会社は仕事にならない。そのうちに世論も下火になって忘れてしまう。問題を深く掘り下げることもなく、同じことを繰り返すのみである。これが熱しやすく冷めやすい現代人のバカの壁であり、死の壁である。

「自分は死なない」という事実に安住した上で、生命の重さや生命の大切さだけを取り出そうとしても、そんなことは無理に決まっている。生命は見ても死は見ないというわけにはいかない。見ていないならば、それは逃げているだけの話である。生命の重さと言うならば、「生死の重さ」が問題とならざるを得ない。生命の大切さと言うならば、「生死の大切さ」が問題とならざるを得ない。

「私達にできることから始めましょう」、「1人1人の力を合わせて社会を動かしましょう」式の捉え方では、生死の問題はどうにもならない。お手上げである。1人1人の力を合わせて何人集まろうが、人間は死ぬ。どんなに私達にできることから始めようと言って頑張っても、人間は死なないことができない。


p.156~より抜粋(安楽死について)

現代において、安楽死の基準を法律で定めようとすれば、それは、この共同体のルールを天のルールにするとは言わないまでも、明文化して表に出してしまおう、ということです。タテマエに近づけようとしていると言ってもいいでしょう。

問題は、さまざまな厄介な部分が存在しているのに、それを踏まえずに明文化することイコール近代化だというような安易な考え方で議論を進めると、どこかで矛盾なりモヤモヤした気持ちが残ってしまうということです。

現代人はともすれば、とにかく明文化すること、言いかえれば意識化することそれ自体が人間のためである、進歩であると考えます。そこには一体どの程度まで意識化することが人間のためになるのか、という観点が抜けているのです。

人間の頭の中で、かなり多くの事柄を整理することは出来ます。しかし、実際の世の中はそんなに整然としたものではない。したがって、整然としたルールのみで社会を扱おうとするとどうしてもどこかにゴミ溜めが出来てしまいます。言語化できないこと、ルールに入りきれないものをどんどんそこに放り込んでいくと、次第にそのゴミ溜めが肥大化して、いつか溢れます。そうすると、社会の枠組なりルールなりが壊れることになります。

あってはならない

2007-07-05 18:25:16 | 実存・心理・宗教
法律は当為(Sollen)であって、事実(Sein)ではない。そうであるならば、人間の数だけ当為が発生する以上、世の中は法律の定めるようにはならない。すべては在るように在る。在るものは、そのように在るしかない。「あってはならない」と言ったところで、あってしまったものは仕方がない。ニーチェは「あってはならない」という形の言明について、喜劇であると断じている。それは当為が当為に収まらず、力への意志が弱者によって解釈への意志に変形された状態である。

世の中の諸々の出来事に対して、「あってはならない」と怒り続けるのが法律家の宿命である。なかなか人権が保障される社会にならない。無実の人間が誤認逮捕される。法律家の述べる理想の社会、あるべき社会は、それが社会であるという表現を採ることによって、何らかの物理的な形象をイメージさせる。ところが、それは事実(Sein)ではなく当為(Sollen)であることによって、個人の願望を超えることがない。

ニーチェ哲学によれば、解釈への意志とは、己の不満と願望のルサンチマンである。スタートに不満を置いてしまえば、それ以降はすべてネガティブな欲望に突き動かされ、ニヒリズムによる世界解釈に陥る。それは力への意志の変形であるが、もはや弱者のルサンチマンとしてしか表れない。法律の当為命題(Sollen)は、それが当為命題であることによって、必然的に現在の事実(Sein)を否定しようとする。それは、己の願望を世界に投影する過程において、当為命題こそが真の世界のあり方であり、現在の事実は真の世界ではないと主張する。それが、「あってはならない」という表現において表れる。

当為命題は、見えるものを見ないようにする。また、見えるようには見ないようにする。当為命題は、自らが「将来における事実命題」であると主張したがる。これは当為命題の事実命題化であり、ある意味では当為命題に内在する宿命である。そして、そのような法律を扱う法律家の宿命である。しかしながら、将来における事実命題は、それが不確定の将来における命題である限り、当為命題から脱却することができない。法律家がいつまでもこのような状態を繰り返しているのは、やはり喜劇である。

人間を実存レベルで捉えるならば、当為命題が事実命題化するはずがない。「あってはならない」ならば、それが目の前に在ることは端的に矛盾であり、説明がつかないはずである。それを説明しようとしないならば、初めからそれが目の前に在ることを前提とし、消えることはないことを受け入れた上で、「あってはならない」と述べていることになる。これは、本心から述べているならば負け犬の遠吠えであり、企業の不祥事の謝罪のようにポーズとして述べているならば偽善である。いずれにしても、不満と願望のルサンチマンである。

養老孟司著 『死の壁』

2007-07-04 18:17:21 | 読書感想文
養老孟司氏の法律家や裁判制度への視線は、非常に皮肉に満ちており、手厳しい。同じ土俵に乗ることなく、図星を突いた上でそれを笑い飛ばし、自分はさっさと消えてしまう。このような芸当ができるのも、人間は誰もがいずれ死ぬこと、自分もいずれ死ぬべき存在であることを直視しているからである。多くの人が逃げ回っている死を直視することにより、逆に死が怖くなくなるという逆説である。

法治国家を維持することに命を賭けている人々からすれば、養老氏のような突っ込み方には、手も足も出ない。従って、無視するしかない。刑法学界においては、死亡時期に関して脳死説と三兆候説(心臓停止・呼吸停止・瞳孔散大)が対立し、長々と争われているが、ここでは養老氏の突っ込みは禁句である。「お前らがそんな風に論争することができるのも、お前の脳と心臓が止まっていないからじゃないか」と言われれば、刑法学者の格調高い論文もぶっ飛んでしまうからである。


p.70~より抜粋(脳死と臓器移植法について)

もともと自分が死ぬのは何かの間違いだと思っている現代人ばかり揃っています。「何で俺が死ななくちゃならねえんだ」と思っている時に、「でも、一体どこから死んだってことにするんだ」という議論を吹っかけられても、「ああ、面倒くせえ」としかならない。

はっきり言えることは、今の時点では結局「生死の境」は死亡診断書にしか存在していないということです。そしてそれは社会的な死に過ぎないということ。そういう決め事はしておかないと遺産相続書が書けないとかそういう事情からなのです。

p.113~より抜粋

脳死臨調の少数意見のなかには、「人は死んだらモノである」という主張もありました。これは移植賛成派の意見だと思われるかもしれません。「モノなんだからどうしようが自由だろう」と続きそうなものです。

しかし実際にはこれは反対派の意見なのです。その理由は「死者には人権が無いから」ということでした。主張したのは法律家でした。法律の世界では人権が無いのがモノで、あるのが人間だということになっている。一般の感覚からは非常に遠いとしか思えない理屈ですが、ともかくその方はそういう立場でした。

これもずいぶんおかしな話です。死体がモノだというのであれば、生きている人間もモノです。対象が生きているか死んでいるかと、それがモノかモノじゃないかは関係ありません。生きているからモノじゃない、というのならば体重なんか計るんじゃない、と言いたくなります。

生活世界の侵食

2007-07-03 18:25:14 | 実存・心理・宗教
法律学が犯罪被害者の存在に気が付きつつも無関心を装ってきたのは、法の規範の形によるものである。刑法の規範の名宛人は、加害者であって被害者ではない。刑法の当為(Sollen)は、「詐欺をしてはならない」「窃盗をしてはならない」という形を採る。「振り込め詐欺に気をつけなければならない」「ひったくりに気をつけなければならない」という被害者を中心とした当為は、人間の自由意思とは関係がなく、学問としては面白味がないからである。犯罪被害者に目が向けられるのは、明日は我が身という動機と共感によるものであって、法の規範の形によるものではない。

法律学は、その視点を社会全体に置く。社会正義の実現、人権の保障、理想の社会の建設といった理念が先行する。このような大きすぎるスケールも、犯罪被害者の見落としの原因の1つである。法律学はもちろん、究極的には犯罪のない社会の建設を目指している。従って、犯罪者の側に着目してその原因を探り、教訓を得ることによって次世代への建設的な理論を提示し、理想の社会の構築に一歩でも近づきたいという欲望に駆られることになる。ここで被害者側に着目することは、どうしてもスケールの小さな問題として位置づけられてしまう。犯罪者がいなくなれば論理的に被害者もいなくなる以上、被害者に着目するということは、理想の社会の建設という理念を捨てることになるからである。

社会正義の実現、理想の社会の建設といった合理性の追求によって、人間の間主観的な生活世界は侵食されてくる。このことを指摘した哲学者として、ハーバーマス(Jurgen Habermas、1929-)が有名である。ハーバーマスは、意識中心の主体的理性の限界を指摘し、主体哲学からの脱出を図ることを提唱した。人間の日常における実践の中には生活世界が編み込まれており、人間はその生活世界をすでに生きてしまっている。しかし、社会における合理性の追求は、この生活世界を侵食する。この侵食が進むと、裁判官は被告人の幼稚な弁解は大真面目で聞くが、被害者の心の叫びはまともに聞かないといった現実が当たり前になってくる。被告人の弁解は刑法の構成要件に関するもので重要であるが、被害者の叫びは単なる情状という位置づけだからである。

人間の間主観的な生活世界と遊離した法律学は、加害者に対する当為(Sollen)を絶対的な中心点に置く。そこでは、加害者が罪を犯してしまったことの善悪からは関心が離れ、犯してしまった事実を事実(Sein)として、正確に事実認定することに関心が移る。実体法は、必然的に訴訟法的になる。訴訟とは、あくまでも戦うものであって、自己弁護することこそが正当な行為であり、反省することは正当ではない。被害者側の落ち度や過失を暴き立てることは、もとより正しい行為であるとされる。法律学による犯罪被害者の見落としは、このような刑事裁判の壮大なスケールの一部分として不可避的であった。法律学の枠組を前提とする限り、これ以外の角度から犯罪被害者を捉えることができなくなる。そして、そこからこぼれた心の傷、心のケアといった抽象的な概念ばかりが喧伝されることになる。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第9章・第10章

2007-07-02 17:55:02 | 読書感想文
第9章・第10章 ヨーロッパ調査

被害者参加制度に反対する立場は、とにかく法廷が混乱する可能性を重視している。ここで見落とされていることは、法廷の混乱を過大評価することによって、そもそもの最初の犯罪の残酷さを見失っていることである。最初の犯罪に伴う混乱に比べれば、法廷の混乱など大したものではない。ところが法治国家というシステムは、被害者が全身を殴られたり刺されたりすることよりも、傍聴席で一言声を出すことのほうを問題視する。犯罪被害者の不条理感は、このようなギャップに端を発するものであり、被害者参加制度もこの点の反省の上に立ったものである。最初の犯罪が残酷であればあるほど、法廷が少々混乱することに大騒ぎしている人々の姿は、いかにも滑稽である。

刑事裁判の法廷の秩序維持は、その中で完結した儀式を遂行することのみを目的とする。狭い法廷の部屋は、この世の混乱を排除することによって、その外部に混乱を押しつける。傍聴席で声を出した被害者を退廷にすれば、法廷の秩序は守られる。しかし、裁判の続きを傍聴したいのにできなかった被害者の悲しみは、法廷の外に残り続ける。こうなると被害者は退廷を恐れて、声を出したいのを必死に押さえ込むことになる。それはそれで、声すら出せない被害者の悲しみは、胸中に残り続ける。これは、最初の犯罪における加害者の殴る蹴るの暴行や罵声が非人間的であればあるほど、そのギャップを際立たせ、裁判という制度が単なる大げさで中身のない儀式であることを暴露してしまう。

法廷がどの程度混乱するのかは、個々の事件によって全く異なる。始めてみなければわからない。予想よりも法廷が混乱したならば、それは逆に言えば、人間として本来述べられるべきであった被害者の感情がこれまでは無理やりに抑えられていたということに他ならない。法廷の秩序維持を絶対的な価値基準として掲げることは、被害者の不条理感を強制的に抑制するということである。被害者参加制度の導入は、この不条理感を法廷で表明させることが正義に適うと判断したものであり、過度に法廷の混乱を恐れていては始まらない。何よりも「被告人が1人の人間として被害者と向き合うこと」を求めるならば、法廷の秩序という価値が劣後することも当然の帰結である。

この世の制度というものは、軌道に乗ってしまえば、昔からあったもののように感じられるものである。被害者参加制度と付帯私訴制度も、あと十数年もすれば、当然のこととして定着するのが世の常である。そこでは、「信じられないことだが、昔は人権意識が成熟しておらず、被害者は裁判の当事者ではなかった」と語られていることになる。被害者を疎外してきた20世紀の日本人は人権意識が低かったと指摘されて、非難を受けることになるが、それも仕方がない。

人間の苦悩のすり替え

2007-07-01 12:57:05 | 実存・心理・宗教
人間は苦悩や不遇に直面すれば、必ずルサンチマンを抱く。これがニーチェの洞察であった。罪を犯した被疑者が、自ら罪を犯してしまったことについて苦悩するならば、そこには何も屈折はない。これに対して、被疑者が警察署に勾留されて取調べを受けることについて自らを不遇だと感じ、それを苦悩だと受け止めるならば、そこに屈折が生じる。

もちろん個人のレベルでは、このような屈折を正当化するシステムに安住せず、心から反省してすべてを明らかにする被疑者も多い。しかし、近代刑法のこのようなシステムによって、被疑者が本来の苦悩から目を逸らすことが正当化されている。そして、このシステム自体が、被疑者を絶えず誘惑し続ける。このような人間の苦悩のすり替えが、犯罪被害者に対して耐え難い苦しみをもたらす。

被疑者が最初は自白していたのに、弁護士との最初の接見の結果として否認に転じることは多い。弁護士から「自白することは悪であり、否認することが善である」という常識の転倒を教えられるならば、被疑者が感動して善に向かおうとするのは当然のことである。善悪の基準が、自分と被害者の間の問題ではなく、自分と国家権力・警察権力の問題にシフトする。もちろん最初の犯罪を反省することは善であることは忘れていないが、国家権力と戦うというより大きな善の前には、被害者を犠牲にすることも正当化されてしまう。

ルサンチマンは、現実の端的な把握を阻害する。自分は罪を犯してしまったという動かしがたい現実を否認することによって、人間としてのより困難な課題を取り逃がす。自分自身と向き合って苦悩せず、国家権力という敵を作って戦う。自問自答せず、警察権力の濫用を問うことを許す。これが近代刑法の弊害であり、負の部分である。

被疑者が勾留されて自由を奪われることを苦悩だと受け止め、そこからルサンチマンを生じさせた人間は、現状を否定しにかかるようになる。そのためには、自分が冤罪で拘束されているという悲劇の主人公になるのが一番である。このように自分を信じさせることは、実際に罪を犯していても可能である。自分は罪を犯すような人間ではなく、濡れ衣を着せられており、誤認逮捕によって無実の罪をかぶせられようとしていると思い込む。もしくは、自分は故意に人殺しをするような人間ではなく、誤って死なせてしまったにすぎないと思い込む。このように信じ込めば、近代刑法のシステム下においては、実際に世界はそのように動き出す。被疑者におけるこのようなルサンチマンは強力である。

これに対して、犯罪被害者にはこのような否認ができない。自ら被害を受けてしまったという苦悩や不遇を否定することができない。現に犯罪は起きてしまったからである。加害者は無罪の推定というシステムの下、現実を「なかったこと」にすることができるが、被害者は現実を「なかったこと」にすることができない。これが加害者と被害者の苦悩の絶望的な差である。そして、実際に加害者が人間の苦悩のすり替えを行った時、被害者の苦しみは絶望的に深くなる。現代における刑事裁判の問題も、19世紀に提示されたニーチェ問題がまったく片付いていないことに関連がある。