犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

AはAである

2007-07-14 11:37:35 | 言語・論理・構造
論理実証主義は、経験論にもとづいて形而上学を否定し、実験や言語分析によって厳正さを求める手法である。そこでは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は聖書のような扱いを受けていた。法実証主義は、この手法をそのまま条文解釈に取り入れようとする。科学的三段論法においては、「AならばBである。BならばCである。よって、AならばCである」という推論がなされる。法的三段論法においては、「AならばBであるべきである。BならばCであるべきである。よって、AならばCであるべきである」という推論がなされる。

ウィトゲンシュタインが語り得ぬものとして挙げた種類のものとして、倫理や宗教、芸術に関する命題があるが、これらはわかりやすい。一見して超越論的な事項だからである。これに対して、論理に関する命題はわかりにくい。実際に科学的三段論法によって「A=B、B=C、ゆえにA=C」という論理が語られているからである。しかし、これでは論理を語ったことにはならない。AがAであることを少しも証明していないからである。「彼は殺人をした、殺人をすれば死刑、ゆえに彼は死刑」という推論はできる。しかし、なぜ殺人が詐欺ではなく、死刑が罰金刑ではないのかに関しては、この推論は何も語っていない。

ウィトゲンシュタインが述べたことは、次のようなことである。AはAであることによってAであり、A以外のものではないことにとってAである。ならば、イコールで結ぼうとすれば、「A=A、A=A、A=A」が永遠に続くしかない。AとBをイコールで結んでしまうことは、語り得ぬものを語ったつもりになりつつ、実は何も語っていない状態に他ならない。「A=B、B=C、ゆえにA=C」を成立させる論理は、それを語る前に、すでに前提とされてしまっている。

法実証主義は、語り得る言葉を論理的に厳密に扱いつつ、語り得ないものとしての論理の存在を忘却した。論理とは、人間がそれの外側に出た瞬間には、メビウスの輪のように内側に入ってしまうものである。一番外側はない。外だと言えるためには、さらにその外がなければならず、そこは内側だからである。これが論理の構造である。これはお手上げである。降参して沈黙するしかない。人間は生きている限り、すでにこのような生を生きてしまっている。

実定法の一言一句に過度にこだわる法実証主義には、やはり哲学がない。「A=B、B=C、ゆえにA=C」では済まず、「X=Y、Y=Z」まで行ってもまだ終わらず、膨大な論理の体系を作ってしまっても、やはりゴールが見えない。語り得ぬものを語ったつもりになって、実は何も語っていないからである。語り得ないものが語り得ないならば、語り得ないものは語り得ないものであると語っているしかない。「A=A、A=A、A=A」が理解できないのに、「A=B、B=C、ゆえにA=C」が理解できるはずがない。