犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

人間の苦悩のすり替え

2007-07-01 12:57:05 | 実存・心理・宗教
人間は苦悩や不遇に直面すれば、必ずルサンチマンを抱く。これがニーチェの洞察であった。罪を犯した被疑者が、自ら罪を犯してしまったことについて苦悩するならば、そこには何も屈折はない。これに対して、被疑者が警察署に勾留されて取調べを受けることについて自らを不遇だと感じ、それを苦悩だと受け止めるならば、そこに屈折が生じる。

もちろん個人のレベルでは、このような屈折を正当化するシステムに安住せず、心から反省してすべてを明らかにする被疑者も多い。しかし、近代刑法のこのようなシステムによって、被疑者が本来の苦悩から目を逸らすことが正当化されている。そして、このシステム自体が、被疑者を絶えず誘惑し続ける。このような人間の苦悩のすり替えが、犯罪被害者に対して耐え難い苦しみをもたらす。

被疑者が最初は自白していたのに、弁護士との最初の接見の結果として否認に転じることは多い。弁護士から「自白することは悪であり、否認することが善である」という常識の転倒を教えられるならば、被疑者が感動して善に向かおうとするのは当然のことである。善悪の基準が、自分と被害者の間の問題ではなく、自分と国家権力・警察権力の問題にシフトする。もちろん最初の犯罪を反省することは善であることは忘れていないが、国家権力と戦うというより大きな善の前には、被害者を犠牲にすることも正当化されてしまう。

ルサンチマンは、現実の端的な把握を阻害する。自分は罪を犯してしまったという動かしがたい現実を否認することによって、人間としてのより困難な課題を取り逃がす。自分自身と向き合って苦悩せず、国家権力という敵を作って戦う。自問自答せず、警察権力の濫用を問うことを許す。これが近代刑法の弊害であり、負の部分である。

被疑者が勾留されて自由を奪われることを苦悩だと受け止め、そこからルサンチマンを生じさせた人間は、現状を否定しにかかるようになる。そのためには、自分が冤罪で拘束されているという悲劇の主人公になるのが一番である。このように自分を信じさせることは、実際に罪を犯していても可能である。自分は罪を犯すような人間ではなく、濡れ衣を着せられており、誤認逮捕によって無実の罪をかぶせられようとしていると思い込む。もしくは、自分は故意に人殺しをするような人間ではなく、誤って死なせてしまったにすぎないと思い込む。このように信じ込めば、近代刑法のシステム下においては、実際に世界はそのように動き出す。被疑者におけるこのようなルサンチマンは強力である。

これに対して、犯罪被害者にはこのような否認ができない。自ら被害を受けてしまったという苦悩や不遇を否定することができない。現に犯罪は起きてしまったからである。加害者は無罪の推定というシステムの下、現実を「なかったこと」にすることができるが、被害者は現実を「なかったこと」にすることができない。これが加害者と被害者の苦悩の絶望的な差である。そして、実際に加害者が人間の苦悩のすり替えを行った時、被害者の苦しみは絶望的に深くなる。現代における刑事裁判の問題も、19世紀に提示されたニーチェ問題がまったく片付いていないことに関連がある。

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