犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

犯罪とは言葉である

2007-07-07 13:05:53 | 言語・論理・構造
ウィトゲンシュタインは、自分の理論によってすべての哲学的な問題は根本的に解決されたと述べた。これが本当であれば、この世には「法律」の問題は沢山あるとしても、「法律学」の問題は完全に消えているはずである。学問にする必要がないものをわざわざ学問にして、大騒ぎしているだけだという話である。ウィトゲンシュタイン哲学には、法律学の理論を根底からすべてひっくり返されるような恐ろしさがある。

例えば、法律家は、この世に「道路交通法違反」という犯罪が存在することを疑っていない。そして、プロの裁判官が厳しい顔をして「道路交通法違反」と言えば、素人の被告人には手も足も出ないように思われている。しかし、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論からすれば、裁判官と被告人には全く差がない。どんなに偉そうに座っている裁判官にとっても否定できないことは、人間であれば誰にでも子供の時代があったということである。そして、人間は赤ちゃんの時には言葉を知らず、両親を初めとする周りの人間によって言語を習得してきたということである。

どんなに頭の良い裁判官であっても、子供の頃に、いきなり「道路交通法違反」という単語を理解することはできない。まずは「みち」という簡単な物質名詞を覚えることから始まる。そして、「どうろ」という難しい物質名詞を覚え、さらには「道路」という漢字も覚え、それと前後して「交通」「違反」という抽象概念を覚えていく。このような語彙が確立して初めて、人間は「道路交通法違反」という言葉を理解することができる。裁判官であろうと被告人であろうと、この言語習得の時間的な先後関係には全く差がない。このような端的な事実は、人間である以上誰しも否定することができない。裁判官や被告人といった肩書きばかりを見てしまうと、言葉を話している動物としての人間が見えなくなる。

ウィトゲンシュタイン哲学からすれば、すべての犯罪は、単に言葉である。人間は「道路交通法違反」という言葉を理解して初めて、この世に「道路交通法違反」という犯罪を存在させることができる。この世に人間の言葉を離れて、「道路交通法違反」という物質なり物体が客観的に存在するわけではない。人間が言葉によって罪を成立「させる」ことにより、初めて罪は成立「する」ようになる。法律家は、この世に「道路交通法違反」という犯罪が存在することを疑っていないが、存在しているのは言葉だけである。条文は言葉であり、犯罪は言葉である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。