犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第11章

2007-07-08 16:13:41 | 読書感想文
第11章 街頭署名

「司法とは、社会秩序維持のためだけではなく、被害者のためにもなければならない」。このような主張が犯罪被害者側によって、近代刑事法のシステムへの反省として述べられていることは皮肉である。近代の刑事法は、全体主義のファシズムを排して、個々の人権を保障する建前であった。日本国憲法にも刑事訴訟法にも、明らかにそのようなことが述べられている。ところが、現実には社会秩序維持という全体主義によって、被害者という個人を見落とす結果をもたらした。近代刑事法のシステムは、それ自身の中に論理的な矛盾を含んでいることが明らかにされたということである。

人権思想とは、一人残らず個々の人権を普遍的に保障するものである。そうだとすれば、犯罪被害者は特殊な経験をした人間であって、一般化できないという考え方は、人権論の破綻である。確かに犯罪被害は特殊な体験であり、その苦しみは特有である。しかし、同時にその倫理的な苦しみの内容は、人類共通の困難な課題そのものを示している。運良く犯罪被害に直面していない人間も、いつ被害者になるかもわからないという意味もあるが、問題はそれに止まらない。犯罪被害という特殊な体験においても、その問題の解決の糸口は、人間が生きて死ぬという万人に共通の普遍的な事実からスタートしないことには始まらないという意味である。人権論に基づく近代刑事法のシステムは、この哲学的な問題を解決することができなかった。

犯罪被害者は、他の誰でもないこの自分がその人生において犯罪被害を受けてしまったという事実に直面する。このごく当たり前のことが、難問の出発点である。他人は自分の代わりに被害を受けることはできないし、自分は他人の代わりに被害を受けることはできない。人間の存在とは、その存在の唯一性・固有性・絶対的な主観性を伴う。犯罪被害を受けることとは、普段は忘れているこの奇跡と恐怖の前に立たされることである。このような地点から見てみれば、人権論に基づく近代刑事法のシステムは、そもそも犯罪という現象を裁くのには不適格なカテゴリーであることがわかる。

司法とは、社会秩序維持のためだけではなく、被害者のためにもなければならない。これは、論理的にごく当然のことである。この世のあらゆる制度は相対的であり、被害者が長年にわたって見落とされてきたことも相対的である。もし岡村勲弁護士が犯罪被害に遭っていなければ、全国犯罪被害者の会(あすの会)は結成されておらず、日本では今でも被害者は見落とされて続けていた。

科学的、客観的な近代刑事法のカテゴリーから、個々の主観的な犯罪被害への着目に動いてきたとすれば、法律学はようやく自らの無力を認め、哲学的な問題に正面から取り組むようになったということである。これはカオスであり、パンドラの箱を開けることに等しい。しかしながら、実際にこの世の存在の謎の解明が不可能であり、少なくとも法治国家の理屈などで説明し尽くされるものではないならば、ごくごく当然の結論に戻っただけの話である。