犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

私的言語論の反転

2007-07-19 17:05:12 | 言語・論理・構造
世の中が複雑になり、細かい法律が増えてくると、人間の日常生活とは別のところで法律の世界が動いているような気になってくる。しかし、冷静に考えれば誰でもわかるように、そのような別の世界などどこにもない。人間はこの世界に生きており、すべての法律は自分が生きている限りでこの世に存在する。

法律とは当為命題(Sollen)であり、本来であれば「罪になる」「罪にならない」という表現は不正確である。このような事実命題(Sein)のような表現を使うことによって、「罪になるのか、ならないのか」という争いが発生する。これは言語上の誤解である。ウィトゲンシュタインは後期において私的言語の不可能性を述べたが、前期思想における独我論の反転の理論とセットで見てみれば、その意味も一層明らかになる。すなわち、私的言語が不可能であるということは、逆に言えばすべての言語はどの「私」にとっても私的言語であるということである。そして、言語ゲームの中では、すべての私的言語が述語的に統一されているということである。

このような独我論の反転、私的言語論の反転が避けられないものだとすれば、客観的に「罪になる」ことは、主観的に「罪にする」ことに依存している。罪にすれば罪になり、罪にしなければ罪にならない。そして、罪にするかしないかは、罪にすべきかすべきでないかという当為命題(Sollen)の選択の問題である。このような構造である以上、客観的に罪が成立しているのかしていないのかを争ったところで、答えが出ないのは当然である。

裁判とは、このような構造の中で裁判官だけを特別の地位に立たせ、メタ視点を仮構する部分的言語ゲームである。もちろん「裁判官」とは肩書きであって人間ではなく、「メタ視点」とは仮構であって副次的な意義しかない。ウィトゲンシュタインによる独我論の反転、私的言語論の反転にまで突き詰めてみれば、犯罪の成立・不成立はこのような形でしか人間の前に表れない。もちろん部分的言語ゲームのルールを守らせるためには、「罪になる」「罪にならない」という言語を使うことも、ルールとして必要となる。部分的言語ゲームは、当為命題(Sollen)が事実命題(Sein)を装うことをも要求する。

ウィトゲンシュタインの亜流である法実証主義は、法律の客観的な意味を探り、客観的な犯罪の成立・不成立の追究に夢中となるが、これもウィトゲンシュタイン哲学からは遠く離れてしまった。「裁判官」とは肩書きであって、人間ではないことを前提として特別の地位に立たせたところが、人間が特別な地位に立っているという錯覚が生じてしまう。これが、裁判所が一般人を蚊帳の外に置いているという被害者の実感の源泉である。