犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第9章・第10章

2007-07-02 17:55:02 | 読書感想文
第9章・第10章 ヨーロッパ調査

被害者参加制度に反対する立場は、とにかく法廷が混乱する可能性を重視している。ここで見落とされていることは、法廷の混乱を過大評価することによって、そもそもの最初の犯罪の残酷さを見失っていることである。最初の犯罪に伴う混乱に比べれば、法廷の混乱など大したものではない。ところが法治国家というシステムは、被害者が全身を殴られたり刺されたりすることよりも、傍聴席で一言声を出すことのほうを問題視する。犯罪被害者の不条理感は、このようなギャップに端を発するものであり、被害者参加制度もこの点の反省の上に立ったものである。最初の犯罪が残酷であればあるほど、法廷が少々混乱することに大騒ぎしている人々の姿は、いかにも滑稽である。

刑事裁判の法廷の秩序維持は、その中で完結した儀式を遂行することのみを目的とする。狭い法廷の部屋は、この世の混乱を排除することによって、その外部に混乱を押しつける。傍聴席で声を出した被害者を退廷にすれば、法廷の秩序は守られる。しかし、裁判の続きを傍聴したいのにできなかった被害者の悲しみは、法廷の外に残り続ける。こうなると被害者は退廷を恐れて、声を出したいのを必死に押さえ込むことになる。それはそれで、声すら出せない被害者の悲しみは、胸中に残り続ける。これは、最初の犯罪における加害者の殴る蹴るの暴行や罵声が非人間的であればあるほど、そのギャップを際立たせ、裁判という制度が単なる大げさで中身のない儀式であることを暴露してしまう。

法廷がどの程度混乱するのかは、個々の事件によって全く異なる。始めてみなければわからない。予想よりも法廷が混乱したならば、それは逆に言えば、人間として本来述べられるべきであった被害者の感情がこれまでは無理やりに抑えられていたということに他ならない。法廷の秩序維持を絶対的な価値基準として掲げることは、被害者の不条理感を強制的に抑制するということである。被害者参加制度の導入は、この不条理感を法廷で表明させることが正義に適うと判断したものであり、過度に法廷の混乱を恐れていては始まらない。何よりも「被告人が1人の人間として被害者と向き合うこと」を求めるならば、法廷の秩序という価値が劣後することも当然の帰結である。

この世の制度というものは、軌道に乗ってしまえば、昔からあったもののように感じられるものである。被害者参加制度と付帯私訴制度も、あと十数年もすれば、当然のこととして定着するのが世の常である。そこでは、「信じられないことだが、昔は人権意識が成熟しておらず、被害者は裁判の当事者ではなかった」と語られていることになる。被害者を疎外してきた20世紀の日本人は人権意識が低かったと指摘されて、非難を受けることになるが、それも仕方がない。

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