犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

昭和のソクラテス

2007-07-16 14:04:28 | 言語・論理・構造
法曹界において、「昭和のソクラテス」と呼ばれて称えられている人物がいる。元東京地方裁判所判事の山口良忠氏であり、一般社会ではほとんど無名であるが、法哲学の授業では最初に名前が出てくる人物である。山口判事は、戦後の食糧難の時代にあって、法律家として違法なヤミ米を食べることを拒み続けた。その結果、極度の栄養失調で亡くなった。病床日記には、「自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで餓死する」との文字が残っており、これが賛否両論の議論を巻き起こした。

「悪法も法なり」。この命題は、法律学及び法哲学の文脈では、上記のような意味でのみ捉えられている。ソクラテスが自ら望んで死刑判決に服したのは、法律の重さを尊重したためである。そして、山口判事も同様である……。山口判事への賛否両論も、この枠を一歩も出ていない点においては両者変わりがない。悪法ならばそれを破るのが善ではないか。いや、悪法を守ることこそが善ではないか。ソクラテスの死刑から2500年、山口判事の餓死から60年、この評価は未だに分かれている。「立派だ」という意見と、「愚直にすぎる」という意見である。このような対立軸を設定しては、評価が定まらないのも当たり前のことである。

ソクラテスは法律の重さを尊重して、自ら死刑判決に服した。逃亡もできたのに、それを拒み、毒杯をあおいで死んだ。もしその通りだとするならば、ソクラテスは単なる「法律をしっかり守りましょう」という道徳家に過ぎないのではないか。もしくは、法律家ではないか。哲学者として名を残しているのはなぜか。ソクラテスは哲学者である必要などないではないか。このような疑問が沸くか否かが、まさにソクラテスの「無知の知」である。哲学の真髄は逆説にある。この逆説は、見えないことによって見えるものであるから、見ようとすることによっては見えないし、かといって見えない人には絶対に見えない。その意味では、山口判事にも見えていない。

「悪法も法なり」という命題をめぐっては、法哲学においてはさらなる難問が立ちはだかる。善法と悪法の区別をどうすればよいのか、という話である。これは、「憲法改悪」というレッテル貼りの問題とも似ている。自分が悪だと思えば悪法になるというならば、単なる独善ではないのか。ここでは、善が善であり、悪が悪であるという存在の形式は完全に見落とされている。哲学の逆説を経由せずに、「悪法も法なり」という命題だけを考察しようとするならば、このような隘路にはまることは当然である。ここで法哲学は、自然法論と法実証主義に分離し、後者はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を崇めるようになる。これが、ウィトゲンシュタイン哲学とは似ても似つかぬものになることも当然である。