犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

血の通った裁判

2007-07-25 15:18:21 | 言語・論理・構造
裁判員制度の導入に伴って、「血の通った法律」「血の通った裁判」というメタファーのフレーズが目立つようになった。もちろん、これには欺瞞的な意味しかない。裁判官はあくまでその職務を遂行しているのであって、本当に1人の人間として熱血ぶりを発揮したり、人情たっぷりの判決を出してしまえば、職務倫理に反するとして問題とされるだけである。裁判とは、あくまでも人間の血を排除した人工的な言語空間である。

条文という人工的な言語空間においては、まず大原則として、人間は有機的な生物としての物体である。「血」という単語は、その文脈においてのみ使用されうる。殴られて血が出たとなれば刑法204条(傷害罪)の問題とされ、出血多量で死亡すれば刑法205条(傷害致死罪)の問題とされ、強制採血をするならば刑事訴訟法225条(鑑定処分許可状)の問題とされる。ここまでは法律の条文の一言一句の厳密な解釈であり、絶対に動かせない言語空間である。このような言語のみを駆使する法律家が、いきなり「血の通った裁判」という地に足の着いていない抽象論を語っているところに、この議論の胡散臭さがある。

法廷という場は、遺族の意見陳述よりも何よりも、まずは証拠調べが中心とされている。出血量や死亡時刻といった事実が、無機質に淡々と述べられる。これは、条文という法律言語に対応するように、事実を人工的な言語によって切り刻んだ結果であり、人体はそのための証拠方法と位置づけられる。遺族が意見を述べられるのは、このような証拠調べを散々見せつけられた後である。被害者遺族の法廷における困惑の原因は、無機質で人工的な言語によるものであり、それを得意になって駆使する法律家の傲慢さによるものである。ここに「血の通った裁判」というお題目だけを付け加えても、そのギャップが目立つだけである。

裁判員制度が導入されても、裁判が人間の血を排除した人工的な言語空間であることは変わらない。文字通り血の通った裁判になることは、現在のシステム上は不可能である。裁判官が1人の人間として情に溺れてしまっては、法治国家のシステムは成り立たないからである。「血の通った法律」「血の通った裁判」という美辞麗句は、そのようなものは実現しないという本音の下でのみ喧伝される建前である。「心の教育」が実現しないのと同じことである。