犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

あってはならない

2007-07-05 18:25:16 | 実存・心理・宗教
法律は当為(Sollen)であって、事実(Sein)ではない。そうであるならば、人間の数だけ当為が発生する以上、世の中は法律の定めるようにはならない。すべては在るように在る。在るものは、そのように在るしかない。「あってはならない」と言ったところで、あってしまったものは仕方がない。ニーチェは「あってはならない」という形の言明について、喜劇であると断じている。それは当為が当為に収まらず、力への意志が弱者によって解釈への意志に変形された状態である。

世の中の諸々の出来事に対して、「あってはならない」と怒り続けるのが法律家の宿命である。なかなか人権が保障される社会にならない。無実の人間が誤認逮捕される。法律家の述べる理想の社会、あるべき社会は、それが社会であるという表現を採ることによって、何らかの物理的な形象をイメージさせる。ところが、それは事実(Sein)ではなく当為(Sollen)であることによって、個人の願望を超えることがない。

ニーチェ哲学によれば、解釈への意志とは、己の不満と願望のルサンチマンである。スタートに不満を置いてしまえば、それ以降はすべてネガティブな欲望に突き動かされ、ニヒリズムによる世界解釈に陥る。それは力への意志の変形であるが、もはや弱者のルサンチマンとしてしか表れない。法律の当為命題(Sollen)は、それが当為命題であることによって、必然的に現在の事実(Sein)を否定しようとする。それは、己の願望を世界に投影する過程において、当為命題こそが真の世界のあり方であり、現在の事実は真の世界ではないと主張する。それが、「あってはならない」という表現において表れる。

当為命題は、見えるものを見ないようにする。また、見えるようには見ないようにする。当為命題は、自らが「将来における事実命題」であると主張したがる。これは当為命題の事実命題化であり、ある意味では当為命題に内在する宿命である。そして、そのような法律を扱う法律家の宿命である。しかしながら、将来における事実命題は、それが不確定の将来における命題である限り、当為命題から脱却することができない。法律家がいつまでもこのような状態を繰り返しているのは、やはり喜劇である。

人間を実存レベルで捉えるならば、当為命題が事実命題化するはずがない。「あってはならない」ならば、それが目の前に在ることは端的に矛盾であり、説明がつかないはずである。それを説明しようとしないならば、初めからそれが目の前に在ることを前提とし、消えることはないことを受け入れた上で、「あってはならない」と述べていることになる。これは、本心から述べているならば負け犬の遠吠えであり、企業の不祥事の謝罪のようにポーズとして述べているならば偽善である。いずれにしても、不満と願望のルサンチマンである。