犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

三好由紀彦著 『はじめの哲学』

2007-07-10 18:17:42 | 読書感想文
法律学は、哲学的な問題をすべてカッコに入れて先に進んでいる。人間の生死の問題を扱っていることによって、哲学的な生死の問題を忘れている。その最たるものが、民法の遺言の規定である。遺言に関する重要な判例法理としては、「自筆証書の押印は印章に代えて拇印で足りる」、「遺言全文がカーボン紙の複写で記載されたとしても自筆だといえる」、「遺言書の本文に押印がなくても封筒の封じ目に押印があればよい」などといったものが挙げられており、民法学者によって研究されている。そして裁判の遂行を担う法律家は、このような判決の意義と射程を確認することが法治国家における義務となる。

これらの法律的な議論は、学問の細分化によってさらに精密になってゆく。そして、現在では予防法務という分野も発達し、老人が元気な間に適切な遺言をしておくことは一種の義務であるとも言われている。自分の死後において、その親族の間で相続をめぐって争いや不和が生じることは、その老人が遺言を書いておかなかったことに基づくものだからである。本田桂子著『その死に方は、迷惑です』(集英社新書)という本も売れている。このような法律学の議論からすれば、哲学的な生死の問題などは全く役立たずで、抽象的な議論であるとされるだけである。非実用的なことをあれこれ考えている暇があれば、さっさと遺言を書いておけというのが法律学からのものの見方である。

このような法律的な議論はもちろん必要であり、重要であることは疑いがない。しかし、このような法律的な死生観で固まっている法律家に、生死の問題をすべて扱われてはたまらない。法律学は、生死を説明して先に進んだ学問ではなく、生死が説明できないことを前提として先に進んだ学問である。被害者遺族が刑事裁判に参加し、自ら被告人質問や求刑などの訴訟活動を行うことを認める被害者参加制度の導入が進められているが、法律家の常識の下では、この遺族の声がどれほど伝わるかは疑わしい。法律学は、自らが法律の条文によって人間の生死を完璧に説明していると自負して、この世の役に立たない哲学を見下そうとする。しかし、この世の役に立つ法律学は、あの世のことまでは語れない。

三好氏が淡々とわかりやすく書いている相続と遺言書の例は、哲学者からすれば笑い話であるし、法律家からすれば背筋が寒くなる話である。相続法の研究をしている民法学者は、どうしても自分自身の相続にだけは立ち会えない。自分が人生を賭けて書いた論文や集めた本も、残された親族にとって意味がなければ、すぐに捨てられる。それでも民法学者は、遺言に関する重要な新判例が登場することを望みつつ研究に励む。それは、学問的に興味深い題材を提供してくれるような死者を望むことである。そして、そのような相続と遺言の研究に熱中している間は、その民法学者は自分がいずれ死ぬことを忘れていられる。相続の話は、笑える人には笑えるし、笑えない人には笑えない。

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