犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「死者が出る」という表現

2007-07-21 11:02:56 | 言語・論理・構造
昨日、地下鉄サリン事件の実行犯であるオウム真理教の横山真人被告の死刑が確定した。横山被告の長い裁判における最大の論点は、被告人がサリンを散布した車両では実際には死者が出ていないのに、死刑は重すぎるのではないかという点であった。最高裁も、「被告人の撒いたサリンによっては直接には死者が出なかったことを考慮しても、死刑はやむを得ない」と結論付けた。

これは、死刑の適用基準の判断としては、刑法学者に対して実に「興味深い」判例の素材を提供する。現在の日本では、「1人殺せば懲役10年、2人殺せば無期懲役、3人殺せば死刑」などと揶揄されることもあるが、神学論争を避けて実証性を維持しなければならない刑法学者は、「判例の集積を楽しみに待つ」しかない。その意味では、実際に被告人の撒いたサリンから死者が出ていないにもかかわらず、これを「3人殺せば死刑」に含めた最高裁の判断は、今後の先例として重要視されることになる。多くの刑法学者によって、最高裁の判決文の一言一句が分析され、1年のうちに多くの論文が誕生することが予想される。

死刑という哲学的な問題からその哲学的な部分を切り落とし、形而下的に役に立つ政策判断という視点で捉えるならば、最高裁の論理も刑法学の論理も立派に完結している。ところが、一歩哲学的な問題を直視するならば、刑法学者の姿勢はもちろんのこと、最高裁における問題の把握も、論点が全くずれていることがわかる。死刑というものを考えたときに、「被告人がサリンを散布した車両では実際には死者が出ていない」という文法は、必然的にカテゴリーエラーを生じる。この点に鈍感であるということは、ますます周辺部分の細かい議論の技術ばかりが発達して、肝心な中心部分が空洞になるという現代社会の構造に自覚的でないということである。犯罪被害者の声は、このような違和感の中から絞り出されて来た。

他の刑罰と死刑とが決定的に断絶しているのは、それが人間の生命に関する刑罰であり、執行されれば取り返しがつかない刑罰だからである。生命は世界に1つである、この点を見失ったまま死刑の適用基準を論じたところで、その絶望的に解決不可能な問題点を問題点としてそのまま把握できるわけがない。何らかの明確な死刑の適用基準についての解答があると思い込み、それを探しているとすれば、これは最初から問題の捉え方があらぬ方向に行っている。少なくとも、「死者が出る・死者が出ない」という表現を用いて死刑を論じる方法は、哲学的には論外である。刑法学は、哲学を抽象的で役立たずだと批判することが多いが、少なくとも死刑問題に関する限り、刑法学は役立たずである。この事実は、犯罪被害者の哲学的洞察を含んだ多くのコメントにおいて表れている。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第13章

2007-07-20 19:24:35 | 読書感想文
第13章 逆転

岡村弁護士は、「犯罪被害者の権利」と「犯罪被害者の支援」という条文の差異に徹底的にこだわった。これは当然のことである。「権利」と言えば、その主語は犯罪被害者自身であるが、「支援」と言えば、その主語は犯罪被害者以外の者である。「犯罪被害者支援基本法」であるならば、犯罪被害者は従来どおりの客体にすぎない。これが、ソシュールやウィトゲンシュタインが明らかにしたように、2次的言語ゲームの恐ろしさである。言葉が世界を作る。「権利」と「支援」、このたった2文字の差が大きい。

近代刑法の原理を前提とする日本国憲法31条ないし40条を前提とする限り、「犯罪被害者の権利」という概念は、全体の整合性においては問題がある。これは、岡村弁護士が述べているとおり、法務省刑事法制課においては何よりの大問題である。これが専門家と一般人との絶望的な断絶であり、犯罪被害者の感じる法律の壁である。これも2次的言語ゲームの恐ろしさである。専門用語が体系的な世界を作り出し、それが完全に一人歩きして自己完結し、人間が生きているこの世界そのものを支配するようになる。一度支配を始めたものを壊すことは、言語ゲームのルールを変更することであるから、当然大混乱をもたらすことになる。

犯罪被害者や一般人が「こんな法律はおかしい」と感じたならば、それは端的におかしい。無知でも感情でもない。「私」という現存在(Da-sein)との関わりにおいて、世界は単にそのように存在しており、存在者は「私」に対して現象しているからである。一般人はこの現象をそのまま生きているが、専門家はこの視点を見失う。誰もが初めは一般人であったはずなのに、専門家はその時の人間的な視点を失ってしまう。そして、単なるフィクションであるはずの法律の条文のほうを客観的な存在であるとして、それが人間を苦しめても何とも思わなくなる。それが、「現行法上仕方がない」という台詞である。もちろん、そのような法律はさっさと変えればいいだけの話であるが、再びその改正した言語ゲームのルールが独り歩きし、人間を苦しめることになる。そして、再び「現行法上仕方がない」という台詞が登場する。これは際限がない。

平成16年12月に「犯罪被害者等基本法」が成立したが、それに基づいた被害者参加制度の議論は、政治的な対立に陥ってしまった。いずれにせよ、被害者参加制度には日本の刑事裁判の構造からして問題が生じるというならば、被害者参加制度に合わせて刑事裁判の構造を変えて行けばいいだけの話である。法律は絶対的なものではない。変えることのできない法律などないからである。犯罪被害者や一般人が「こんな法律はおかしい」と感じたならば、それは人間としての掛け値なしの真実の声である。これまでの刑事裁判の構造において欠けていたものに気が付いたならば、それを少しでも早く修正するのが法律というものの役目である。もちろん、この世のすべての問題を解決する完璧な法律など作れるはずもないが、これは2次的言語ゲームという法律の性質上、当然のことである。

私的言語論の反転

2007-07-19 17:05:12 | 言語・論理・構造
世の中が複雑になり、細かい法律が増えてくると、人間の日常生活とは別のところで法律の世界が動いているような気になってくる。しかし、冷静に考えれば誰でもわかるように、そのような別の世界などどこにもない。人間はこの世界に生きており、すべての法律は自分が生きている限りでこの世に存在する。

法律とは当為命題(Sollen)であり、本来であれば「罪になる」「罪にならない」という表現は不正確である。このような事実命題(Sein)のような表現を使うことによって、「罪になるのか、ならないのか」という争いが発生する。これは言語上の誤解である。ウィトゲンシュタインは後期において私的言語の不可能性を述べたが、前期思想における独我論の反転の理論とセットで見てみれば、その意味も一層明らかになる。すなわち、私的言語が不可能であるということは、逆に言えばすべての言語はどの「私」にとっても私的言語であるということである。そして、言語ゲームの中では、すべての私的言語が述語的に統一されているということである。

このような独我論の反転、私的言語論の反転が避けられないものだとすれば、客観的に「罪になる」ことは、主観的に「罪にする」ことに依存している。罪にすれば罪になり、罪にしなければ罪にならない。そして、罪にするかしないかは、罪にすべきかすべきでないかという当為命題(Sollen)の選択の問題である。このような構造である以上、客観的に罪が成立しているのかしていないのかを争ったところで、答えが出ないのは当然である。

裁判とは、このような構造の中で裁判官だけを特別の地位に立たせ、メタ視点を仮構する部分的言語ゲームである。もちろん「裁判官」とは肩書きであって人間ではなく、「メタ視点」とは仮構であって副次的な意義しかない。ウィトゲンシュタインによる独我論の反転、私的言語論の反転にまで突き詰めてみれば、犯罪の成立・不成立はこのような形でしか人間の前に表れない。もちろん部分的言語ゲームのルールを守らせるためには、「罪になる」「罪にならない」という言語を使うことも、ルールとして必要となる。部分的言語ゲームは、当為命題(Sollen)が事実命題(Sein)を装うことをも要求する。

ウィトゲンシュタインの亜流である法実証主義は、法律の客観的な意味を探り、客観的な犯罪の成立・不成立の追究に夢中となるが、これもウィトゲンシュタイン哲学からは遠く離れてしまった。「裁判官」とは肩書きであって、人間ではないことを前提として特別の地位に立たせたところが、人間が特別な地位に立っているという錯覚が生じてしまう。これが、裁判所が一般人を蚊帳の外に置いているという被害者の実感の源泉である。

中島義道著 『哲学者というならず者がいる』 その4

2007-07-18 13:47:04 | 読書感想文
日本が変わる。日本を変えなければならない。私が日本を変える。選挙戦が始まれば、例によって同じ言葉が絶叫される。各党の主義主張の内容は千差万別だが、その形式は驚くほど一致している。

日本が変わる。しかし、変わったものは更に変わる。変えたものは、更に変えられる。その更に変えられたものも、また更に変えられる。この世に変わらないものはない。6年前に苦労の末に生み出された制度は、3年前に再び変更されており、現在では跡形もない。これと同じように、3年後に念願の改革が実現したとしても、6年後にはさらなる改革によって、跡形もなくなっているかも知れない。

過去も未来も、すべてはこの「今」において実現している。ハイデガーが20世紀の若者を魅了したのも、この単純な事実に誰も逆らえなかったからである。ところが、ハイデガーが指摘したとおり、人間はこの過去と未来を含んだ「今」を直視できない。人間は選挙戦に夢中になり、当選と落選の境界で無我夢中になり、この今だけが「今」となる。政治学は辛うじて哲学と接点があるが、選挙戦と哲学とは全く接点がない。

民主党は、小沢代表の顔写真を前面に出したマニフェスト、テレビCMの宣伝に余念がない。ここで、ちょっと落ち着いて前回の選挙の時のマニフェストやCM、すなわち岡田元代表が自信満々の表情で政策を語っているCMでも見てみれば、少しは賢くなるかも知れない。


p.103~より 抜粋

原因として的確であると認められているものの1つは、広く「心」と呼ばれるものである。何らかの「心の動き」(これは「見えない」)が、投票行動を、従って「自民圧勝」という選挙結果を引き起こしたのだ。「自民党のマニフェストはわかりやすく民主党のマニフェストはわかりにくい、だから自民党に入れよう」という「心の動き」が「自民圧勝・民主惨敗」をもたらしたというわけである。

だが、直ちにわかるように、そう解説する者はすべての投票者の「心の動き」を観察したわけではなく、きわめてわずかな資料から想像を逞しくしてこういうお話を拵え上げただけ。どこにも確定的な証拠はない。ただそういうお話がいかにも尤もらしいだけである。

だから、もし今回の選挙で反対に自民惨敗・民主圧勝の結果が生まれていたとしたら、解説者は「国民が政権交代を望んでいたから」とか「自民党内部のごたごたに嫌気が差したから」とか、それらしい原因を見つけてきて、シャーシャーと喋り散らすことであろう。

つまり、原因は結果を引き起こすものとして拵え上げたものであるから、それは結果を引き起こすのである。いかなる現象でも、それを「結果」とみなしたとたん、適当な原因を探ることができるのである。因果関係はあたかも原因が結果を「引き起こす」力学的関係であるかのような外見をしているが、じつはそうではない。1つの現象を「見えないもの」と「見えるもの」という2通りに語り分けたうえで、前者が後者を「引き起こす」というお話を作り上げただけなのである。

中島義道著 『哲学者というならず者がいる』 その3

2007-07-17 17:32:09 | 読書感想文
政治家や多くの国民は、新しい選挙が始まると、前の選挙のことを完全に忘れる。一昨年の郵政解散に始まる9・11衆議院議員選挙では、「刺客」「小泉劇場」「小泉チルドレン」といった流行語も誕生し、自民党が圧勝した。結果論として、自民党の圧勝の原因については何とでも言える。それでは、今度の選挙についてはどうなのか。そう言われてしまうと、評論家は何も言えなくなる。これが時間の不思議、「今」の不思議である。

人間が過去の選挙結果を客観的に評価することは簡単である。これに対して、その選挙の期日前の時点における自分自身の心情を見つめることは難しい。絶対に勝つと思っていたのに負けてしまった。そうだとすれば、今回の選挙も同じことではないか。しかし、なぜか今回の選挙は勝ちそうな気がする。この繰り返しである。ハイデガーに言わせれば、時間性に鈍感な現代人の頽落というところである。


p.103~より 抜粋

一番おもしろかったのは、選挙にまつわる夥しいジャーナリストや評論家や学者たちの言葉遣いである。「なぜ、自民党は圧勝したのか?」「なぜ民主党は惨敗したのか?」という「なぜ」に対するさまざまな勝手きままな説明である。それは、哲学的に興味の尽きない因果律に関する言説の宝庫である。

自民党が圧勝した「原因」は、国民の多くが構造改革を求めていたためである、自民党のマニフェストがわかりやすかったためである、小泉首相の人間的魅力のためである……。因果関係とは、「見えるもの」を「見えないもの」によっ「引き起こされた」と説明することなのだ。従って、原因を求めるとは、「自民圧勝・民主惨敗」という「見えるもの」を引き起こした、とみなされる「見えないもの」を求めることである。

(続く)

昭和のソクラテス

2007-07-16 14:04:28 | 言語・論理・構造
法曹界において、「昭和のソクラテス」と呼ばれて称えられている人物がいる。元東京地方裁判所判事の山口良忠氏であり、一般社会ではほとんど無名であるが、法哲学の授業では最初に名前が出てくる人物である。山口判事は、戦後の食糧難の時代にあって、法律家として違法なヤミ米を食べることを拒み続けた。その結果、極度の栄養失調で亡くなった。病床日記には、「自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで餓死する」との文字が残っており、これが賛否両論の議論を巻き起こした。

「悪法も法なり」。この命題は、法律学及び法哲学の文脈では、上記のような意味でのみ捉えられている。ソクラテスが自ら望んで死刑判決に服したのは、法律の重さを尊重したためである。そして、山口判事も同様である……。山口判事への賛否両論も、この枠を一歩も出ていない点においては両者変わりがない。悪法ならばそれを破るのが善ではないか。いや、悪法を守ることこそが善ではないか。ソクラテスの死刑から2500年、山口判事の餓死から60年、この評価は未だに分かれている。「立派だ」という意見と、「愚直にすぎる」という意見である。このような対立軸を設定しては、評価が定まらないのも当たり前のことである。

ソクラテスは法律の重さを尊重して、自ら死刑判決に服した。逃亡もできたのに、それを拒み、毒杯をあおいで死んだ。もしその通りだとするならば、ソクラテスは単なる「法律をしっかり守りましょう」という道徳家に過ぎないのではないか。もしくは、法律家ではないか。哲学者として名を残しているのはなぜか。ソクラテスは哲学者である必要などないではないか。このような疑問が沸くか否かが、まさにソクラテスの「無知の知」である。哲学の真髄は逆説にある。この逆説は、見えないことによって見えるものであるから、見ようとすることによっては見えないし、かといって見えない人には絶対に見えない。その意味では、山口判事にも見えていない。

「悪法も法なり」という命題をめぐっては、法哲学においてはさらなる難問が立ちはだかる。善法と悪法の区別をどうすればよいのか、という話である。これは、「憲法改悪」というレッテル貼りの問題とも似ている。自分が悪だと思えば悪法になるというならば、単なる独善ではないのか。ここでは、善が善であり、悪が悪であるという存在の形式は完全に見落とされている。哲学の逆説を経由せずに、「悪法も法なり」という命題だけを考察しようとするならば、このような隘路にはまることは当然である。ここで法哲学は、自然法論と法実証主義に分離し、後者はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を崇めるようになる。これが、ウィトゲンシュタイン哲学とは似ても似つかぬものになることも当然である。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第12章

2007-07-15 15:07:56 | 読書感想文
第12章 約束

岡村弁護士と岡本真寿美さんが公演をした日弁連の人権擁護大会においては、犯罪被害者の刑事裁判への参加に反対する一部の弁護士による反論が相次いだ。これは団体や大会の性質上、必然的である。ここで問題となるのは、弁護士という肩書きに基づく主義主張と、1人の人間としての倫理観との相克である。この対立に道筋をつけるのは、小手先のロジックやデータではなく、人間的に深い部分から根本的に説き起こす強靱な論理の力である。

犯罪被害者の刑事裁判への参加は、開始してみなければそのメリットもデメリットもわからない。始める前からあれこれ反対しても仕方がないことである。数年の試行錯誤を重ねた上で徐々に軌道に乗って行くことは、もとより承知の上である。ここでその試行錯誤すらも反対し、メリットとデメリットの判定の機会すらも奪おうとするならば、これは単なる原理主義の信仰にすぎない。期限を定めずに時期尚早だと言って反対することは、無限の先送りを意味する。流れの速い現代社会では、慎重な議論とは先送りによる廃案と同義であり、初めから真面目に議論する気がない場合に用いられる言葉である。被告人の人権を絶対的な原理に置き、そこからすべてを演繹するということは、犯罪被害者の問題は切り捨ててもやむを得ないという主張に他ならない。

岡村弁護士はこのように述べている。「結局のところ、被害者にこんなに惨めな思いをさせておいていいと考えるのか。それとも、被害者の尊厳を大事にして、その意見を聞いてあげよう、法廷にも参加させてあげようという、温かい気持ちを持てるのか。勝負はそこだと思います」。ここに、この問題のすべては言い尽くされている。このように言われてしまえば、反対派は正面からは反論できない。反対派の根底には、被告人の人権こそが唯一絶対的であり、被害者のことなど無視すべきであるという主張があるが、このように言ってしまえば負けである。そこで、反対派は様々なロジックを考え出す。

反対派は、被害者の刑事裁判への参加は、被害者自身のためにもならないと述べる。「復讐からは何も生まれない」という能書きもある。これは説得力がない。すべてはデメリットを過大評価した想像に基づくものにすぎず、反対のための反対に陥っているからである。被害者は蚊帳の中に入ることによって、初めてその先のことがわかる。蚊帳の中に入ってかえって傷ついたと感じることすら、蚊帳の中に入らなければわからない。入る前から傷つくと決め付けても仕方がない。物事は実行してみなければわからないに決まっているからである。被害者自身のためを思うのは、被害者自身でしかない。反対派が被害者自身のためを思ってくれても、それは余計なお世話である。

被害者がとにかく傷ついていたことは、蚊帳の外に置かれていたこと自体に基づくものである。従って、蚊帳の中に入って傷つくことは、もとより覚悟の上である。蚊帳の外に置かれて傷つくことよりも、蚊帳の中に入って傷つくことのほうが、まだ人間らしい傷つき方である。1人の人間としての存在が認められているからである。今回の法案の通過は、小手先のロジックによって勝利したというような安物ではない。

AはAである

2007-07-14 11:37:35 | 言語・論理・構造
論理実証主義は、経験論にもとづいて形而上学を否定し、実験や言語分析によって厳正さを求める手法である。そこでは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は聖書のような扱いを受けていた。法実証主義は、この手法をそのまま条文解釈に取り入れようとする。科学的三段論法においては、「AならばBである。BならばCである。よって、AならばCである」という推論がなされる。法的三段論法においては、「AならばBであるべきである。BならばCであるべきである。よって、AならばCであるべきである」という推論がなされる。

ウィトゲンシュタインが語り得ぬものとして挙げた種類のものとして、倫理や宗教、芸術に関する命題があるが、これらはわかりやすい。一見して超越論的な事項だからである。これに対して、論理に関する命題はわかりにくい。実際に科学的三段論法によって「A=B、B=C、ゆえにA=C」という論理が語られているからである。しかし、これでは論理を語ったことにはならない。AがAであることを少しも証明していないからである。「彼は殺人をした、殺人をすれば死刑、ゆえに彼は死刑」という推論はできる。しかし、なぜ殺人が詐欺ではなく、死刑が罰金刑ではないのかに関しては、この推論は何も語っていない。

ウィトゲンシュタインが述べたことは、次のようなことである。AはAであることによってAであり、A以外のものではないことにとってAである。ならば、イコールで結ぼうとすれば、「A=A、A=A、A=A」が永遠に続くしかない。AとBをイコールで結んでしまうことは、語り得ぬものを語ったつもりになりつつ、実は何も語っていない状態に他ならない。「A=B、B=C、ゆえにA=C」を成立させる論理は、それを語る前に、すでに前提とされてしまっている。

法実証主義は、語り得る言葉を論理的に厳密に扱いつつ、語り得ないものとしての論理の存在を忘却した。論理とは、人間がそれの外側に出た瞬間には、メビウスの輪のように内側に入ってしまうものである。一番外側はない。外だと言えるためには、さらにその外がなければならず、そこは内側だからである。これが論理の構造である。これはお手上げである。降参して沈黙するしかない。人間は生きている限り、すでにこのような生を生きてしまっている。

実定法の一言一句に過度にこだわる法実証主義には、やはり哲学がない。「A=B、B=C、ゆえにA=C」では済まず、「X=Y、Y=Z」まで行ってもまだ終わらず、膨大な論理の体系を作ってしまっても、やはりゴールが見えない。語り得ぬものを語ったつもりになって、実は何も語っていないからである。語り得ないものが語り得ないならば、語り得ないものは語り得ないものであると語っているしかない。「A=A、A=A、A=A」が理解できないのに、「A=B、B=C、ゆえにA=C」が理解できるはずがない。

東直子著 『とりつくしま』

2007-07-12 15:47:47 | 読書感想文
文筆家と名乗り、哲学者と名乗ることを避けた池田晶子氏は、生涯にわたって、語り得ぬものを語る形式を模索し続けた。語り得ぬ最大のものとは、存在であり、人間の生死である。それは、端的に語り得ず、そのことによって示されるものである。従って、それを語ろうとすることは、それが上手く示されるような形式を探ることに他ならない。池田氏は、「哲学エッセイ」や「対話」という独特の文体を確立していたが、その他に「詩」という形式にも可能性を託していたようである。

歌人の東直子氏による小説『とりつくしま』は、池田氏が模索していた形式の1つを体現しているように思われる。埴谷雄高氏の長編小説『死霊』にその可能性を見ていた池田氏が、もし一般向けの易しい小説を書くとしたら、恐らくこのようなものになっただろう。そのような感じすら受ける。

語り得ぬものを語ろうとするとき、その言葉は詩に似る。前例のない着眼点とは、作為的に生み出せるものではない。そうとしかできない、それによって生み出される言葉が、結果的に前例のない着眼点となる。存在の謎から思索された作品は、アイディアがひらめくとか、そのような安っぽいものでは済まされない。人間が言葉を道具として表現するのではない。言葉が発現する形式を探した結果、それが人間を通して絞り出されてくるというのが正確である。もちろん、一度発現されてしまった言葉は、昔からそこにあったように感じられることになる。その意味で、この種の言葉は、厳しく読者を選ぶ。

犯罪被害者の遺族は、裁判官の口からどのような重い言葉が述べられるのかを期待して判決の傍聴に行ったところ、「命を奪われた被害者の苦痛や無念は察するに余りある」、「短い生涯を終えざるを得なかった被害者の無念は察するに余りある」といった数秒の説明で終わってしまったということが多い。実際に判決文を謄写してみると、本当に1行だけしか書かれておらず、定型文を使い回ししていることが明白となり、さらにがっかりする例も多い。このような判決文と、東氏の小説を比べてみると、犯罪被害者の言葉を正確に捉える形式として、お役所の公文書はミスキャストであることが明白になる。

言葉はあいまいである

2007-07-11 18:00:53 | 言語・論理・構造
総務省の年金記録確認中央第三者委員会は、年金保険料を支払った証拠がない人への年金給付に対して、「原則として本人の主張が明らかに不合理ではなく、一応確からしい場合には支給対象にする」との基本方針を決めた。この「明らかに不合理ではなく」「一応確からしい」という基準については、例によってあいまいであるとの批判が起きている。それでは、どのようにしたらあいまいではなくなるのか。人間は言語によって、「一応確からしい」という基準以上のことを語りうるのか。これを真剣に考え詰めるならば、我々は社会保険庁を槍玉にあげて怒っていてもらちがあかないことがわかる。

法律とは当為命題(Sollen)であって、事実命題(Sein)ではない。これを言語ゲームの階層性という点から眺めてみると、別の様相が見えてくる。部分的言語ゲームについては、その中に入り切ってしまうとき、その言語ゲームは当為命題として表れる。しかし、一歩外に出てしまうと、それは事実命題でしかない。この点において、法律は事実命題とも捉えられる。これに対して、すべての基盤である1次的言語ゲームについては、その外に出ることを想定できない。従って、それは事実命題(Sein)と当為命題(Sollen)のすべてを成立させており、それ自体が事実命題か当為命題を問うことはできない。

このように部分的言語ゲームである法律の専門性が進むと、「法」と言葉とが別物のように思えてくる。細かい条文などなくても、人間は大昔からそれなりに生活できていた。ところが、法治国家における現代人は、この人類の歴史を忘れる。そして、細かい条文を作らないと気が済まなくなってしまう。ここでは、前期ウィトゲンシュタインの写像理論をさらに厳密にし、言葉を厳密に定義することが要求される。ソシュールによる言語論的転回はとりあえず忘れておいて、「言葉は物の名前である」という言語名称目録観に立つのが現代の法解釈であり、政治経済である。

現代社会における各種の知識の専門分化は、人間に部分的言語ゲームにおける厳密な定義が可能であるとの幻想を抱かせる。それが、「明らかに不合理ではなく」「一応確からしい」場合には年金を支給するという基準を大真面目で提示する総務省の委員会である。さらには、それが不明確であると批判する国民である。「言葉は物の名前である」という言語名称目録観に立ちつつ、年金の支給基準を言語によって述べようとするならば、これは1人の人間が一生かかっても終わらないほどの気が遠くなる仕事である。にもかかわらず人間は、それが可能であると思い込んでしまう。その結果として、六法全書とお役所の書類ばかりが厚くなる。