犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

養老孟司著 『死の壁』 続き

2007-07-06 17:38:33 | 読書感想文
養老氏の指摘は、実に単純である。現代人は、「自分は死なない」と思っているから、バカの壁ができる。従って、バカの壁と死の壁は同じものの別の壁面である。

いじめ自殺や過労死が社会問題となると、現代人は大上段の視点から、「生命の重さについて考え直すべきである」、「生命の大切さを教育すべきである」という意見で一致する。ところが、実際にこの通りにやっていたら、下手に哲学的問題に足を突っ込むことになり、学校は授業にならないし、会社は仕事にならない。そのうちに世論も下火になって忘れてしまう。問題を深く掘り下げることもなく、同じことを繰り返すのみである。これが熱しやすく冷めやすい現代人のバカの壁であり、死の壁である。

「自分は死なない」という事実に安住した上で、生命の重さや生命の大切さだけを取り出そうとしても、そんなことは無理に決まっている。生命は見ても死は見ないというわけにはいかない。見ていないならば、それは逃げているだけの話である。生命の重さと言うならば、「生死の重さ」が問題とならざるを得ない。生命の大切さと言うならば、「生死の大切さ」が問題とならざるを得ない。

「私達にできることから始めましょう」、「1人1人の力を合わせて社会を動かしましょう」式の捉え方では、生死の問題はどうにもならない。お手上げである。1人1人の力を合わせて何人集まろうが、人間は死ぬ。どんなに私達にできることから始めようと言って頑張っても、人間は死なないことができない。


p.156~より抜粋(安楽死について)

現代において、安楽死の基準を法律で定めようとすれば、それは、この共同体のルールを天のルールにするとは言わないまでも、明文化して表に出してしまおう、ということです。タテマエに近づけようとしていると言ってもいいでしょう。

問題は、さまざまな厄介な部分が存在しているのに、それを踏まえずに明文化することイコール近代化だというような安易な考え方で議論を進めると、どこかで矛盾なりモヤモヤした気持ちが残ってしまうということです。

現代人はともすれば、とにかく明文化すること、言いかえれば意識化することそれ自体が人間のためである、進歩であると考えます。そこには一体どの程度まで意識化することが人間のためになるのか、という観点が抜けているのです。

人間の頭の中で、かなり多くの事柄を整理することは出来ます。しかし、実際の世の中はそんなに整然としたものではない。したがって、整然としたルールのみで社会を扱おうとするとどうしてもどこかにゴミ溜めが出来てしまいます。言語化できないこと、ルールに入りきれないものをどんどんそこに放り込んでいくと、次第にそのゴミ溜めが肥大化して、いつか溢れます。そうすると、社会の枠組なりルールなりが壊れることになります。

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2 コメント

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Unknown (qeb)
2007-07-06 18:44:20
「自分が死ぬ」とは思えない、構造的不可能もあるから話がやっかいですね。
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そうですね。 (法哲学研究生)
2007-07-06 21:06:01
そうですね。多くの社会問題は、この構造的不可能を放置しても何とかなるのですが、殺人や死刑、過労死や自殺といった問題ついては、不可能を不可能として端的に捉えなければ話が進まないですね。
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