犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

いじめ問題とは

2007-07-31 12:45:49 | 国家・政治・刑罰
いじめ問題は、長きにわたって、管理教育・体罰・校則などの問題とセットで語られてきた。当然ながら、これはある特定の視点によるグループ分けである。いじめは人権侵害であり、子ども達の間に人権を尊重する精神が育っていないことが問題であって、それは教師が子ども達の人権を侵害しているからである。従って、管理教育を改め、体罰を許さず、校則を廃止すれば、問題の根本を絶やすことができ、いじめ問題も一気に解決する……。このような図式がいかに物事を単純化し、多様な物の見方の可能性を奪い、いじめ問題への深い考察を妨げてきたか。これは、政治学と哲学の関係に似ている。

教師が子どもの人権を侵害していることがいじめ問題の本質であるという単純な枠組は、現在でも根強く生き残っているが、今一歩現実に合わない。学級崩壊やモンスターペアレントの出現に直面すれば、自由放任が行き過ぎて、自由とわがままをはき違えてしまったとの分析のほうが的を射ている。教師が体罰をするから子どもはストレスでいじめに走り、校則を厳しくするからいじめに走るのだという理論は、1つの仮説としてのみ成立するものであり、客観的な事実ではない。体罰といじめを同じグループに簡単にくくってしまえば、いじめられた者に特有の人間的な苦しみを掘り下げることができなくなってしまう。自殺という哲学的な難問にストレートに直結するいじめ問題を、安易に人権論でまとめて済むわけがない。人権派が教師をやり玉に上げて糾弾し、教師がうつ病になって自殺するのでは、誰が誰をいじめているのかわからない。

哲学の役割は、権力と反権力のフィルター自体を壊すことである。哲学は政治ではなく、右でも左でもない。日の丸・君が代を義務付ければ秩序が保たれていじめが減るというわけでもなく、日の丸・君が代に反対すれば人権が尊重されていじめが減るというわけでもない。いじめ問題は、端的にいじめ問題である。いじめられれば死にたくなるという哲学的な真実は、政治的な議論で片が付く話ではない。いじめとは何かという事実論は、いじめをどうすべきかという規範論に先立つ。このような問題の切り口は、実用性がなければ意味がない教育学よりも、実用性など考えてもいない哲学に馴染むものである。いかに「いじめのない学校を作ろう」と決意を新たにしても、いじめで死んだ我が子は帰ってこない。

心の教育、命を大切にする教育というお題目の有効性がないことがわかっていながら、他に適当な言い回しが発明できず、同じことを繰り返しているのは欺瞞的である。「心」や「命」という概念を、哲学的思考を避けつつ語るならば、あっという間に行き詰まることは当然である。国家とは公権力であり、すなわち国家権力であるという図式から逃れられなければ、いかなる問題も社会問題に矮小化され、政治家に対して施策を要求し、それが達成されなければ不満を述べるという事態が延々と続くことになる。ヘーゲルにおける「家族・市民社会・国家」という分類は、このような行き詰まりに多くのヒントを与えてくれる。