犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

風化の防止は言語化にかかっている

2007-07-09 17:35:26 | 言語・論理・構造
事件の風化を防ぐために、人はその体験を語り継ぐ。しかし、それでも事件の風化はなかなか防げない。ここで問われてくるのは、体験の言語化という作業に自覚的であるか否かである。体験を語り継ぐことは、「語り継ぐ」というまさにそのことによって、言葉によってなされるしかない。言語の寿命は、人間の寿命をはるかに超える。

事件を直接に体験していない人にとっては、語り継ぐことへの強い意欲を持つ動機がない。これは必然的である。そもそも体験していないものは、それを忘れることができない。覚えていないものは、忘れることができないからである。事件を直接に体験していない人の体験は、「事件の体験を聞いたこと」である。それは元の事件ではなく、事件の話を聞いたという体験である。これは間接的であり、時代が進めば無限後退に陥る。そして、膨大な言語に混じって自然淘汰される。

風化する言葉と風化しない言葉との違いは何か。それは、精緻な言語化という作業に自覚的であるか否かの違いである。偉大な哲学者が残した言葉は、今日まで2000年以上も語り継がれている。気が遠くなるほどの膨大な言葉が消え去った中で、哲学者が残した言葉は、そのままの形で語り継がれている。これは、その言葉が時空を超えた普遍を指し示していることの表れである。

犯罪被害が特殊な経験であることを前提としてしまうと、それは必然的に普遍性を失う。人々に理解と共感を求めることを前提として語り継ごうとすると、その言葉は風化する。「我々1人1人が他人事としてではなく、自分自身のこととして受け止め、意識を変えていきましょう」と言われるや否や、それは風化する。風化しないものとは、必然的にすべての人間に等しくあてはまってしまう事実である。それは感情ではなく、論理である。感情は風化するが、論理は風化することがない。

事件の風化を防ぐために必要なことは、体験の言語化という作業に自覚的であることである。時代を超えた言葉は、深く考え込まれて、深く思索されたその先にある。自問自答による精緻な言語化は、内面的でありつつ分析的であり、かつ批評的でなければならない。無意識を意識に浮かび上がらせるとき、それは後から付いてきた言葉を瞬間的に捕らえる形になる。これは、政治的な主義主張の言語とは対極にある。我々は新たな選挙が始まれば、数年前の選挙運動の記憶などどこかへ消えてしまう。選挙カーから発せられる政治的な言葉は、あくまでも軽い。

犯罪被害がいつまでも語り継がれるために必要な言語は、特殊な経験であるがゆえに普遍を指し示す言語である。それは、名付けられない感情にどこまでも執着し、立ち止まってこだわり、言語化したところに表れる。これは、語り得ぬものの範囲を少しでも狭め、語り得るものの範囲をほんの少しでも広げるものである。偉大な哲学者が残した言葉がいつまでも語り継がれているのも、このような理由によるものである。

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