犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

生活世界の侵食

2007-07-03 18:25:14 | 実存・心理・宗教
法律学が犯罪被害者の存在に気が付きつつも無関心を装ってきたのは、法の規範の形によるものである。刑法の規範の名宛人は、加害者であって被害者ではない。刑法の当為(Sollen)は、「詐欺をしてはならない」「窃盗をしてはならない」という形を採る。「振り込め詐欺に気をつけなければならない」「ひったくりに気をつけなければならない」という被害者を中心とした当為は、人間の自由意思とは関係がなく、学問としては面白味がないからである。犯罪被害者に目が向けられるのは、明日は我が身という動機と共感によるものであって、法の規範の形によるものではない。

法律学は、その視点を社会全体に置く。社会正義の実現、人権の保障、理想の社会の建設といった理念が先行する。このような大きすぎるスケールも、犯罪被害者の見落としの原因の1つである。法律学はもちろん、究極的には犯罪のない社会の建設を目指している。従って、犯罪者の側に着目してその原因を探り、教訓を得ることによって次世代への建設的な理論を提示し、理想の社会の構築に一歩でも近づきたいという欲望に駆られることになる。ここで被害者側に着目することは、どうしてもスケールの小さな問題として位置づけられてしまう。犯罪者がいなくなれば論理的に被害者もいなくなる以上、被害者に着目するということは、理想の社会の建設という理念を捨てることになるからである。

社会正義の実現、理想の社会の建設といった合理性の追求によって、人間の間主観的な生活世界は侵食されてくる。このことを指摘した哲学者として、ハーバーマス(Jurgen Habermas、1929-)が有名である。ハーバーマスは、意識中心の主体的理性の限界を指摘し、主体哲学からの脱出を図ることを提唱した。人間の日常における実践の中には生活世界が編み込まれており、人間はその生活世界をすでに生きてしまっている。しかし、社会における合理性の追求は、この生活世界を侵食する。この侵食が進むと、裁判官は被告人の幼稚な弁解は大真面目で聞くが、被害者の心の叫びはまともに聞かないといった現実が当たり前になってくる。被告人の弁解は刑法の構成要件に関するもので重要であるが、被害者の叫びは単なる情状という位置づけだからである。

人間の間主観的な生活世界と遊離した法律学は、加害者に対する当為(Sollen)を絶対的な中心点に置く。そこでは、加害者が罪を犯してしまったことの善悪からは関心が離れ、犯してしまった事実を事実(Sein)として、正確に事実認定することに関心が移る。実体法は、必然的に訴訟法的になる。訴訟とは、あくまでも戦うものであって、自己弁護することこそが正当な行為であり、反省することは正当ではない。被害者側の落ち度や過失を暴き立てることは、もとより正しい行為であるとされる。法律学による犯罪被害者の見落としは、このような刑事裁判の壮大なスケールの一部分として不可避的であった。法律学の枠組を前提とする限り、これ以外の角度から犯罪被害者を捉えることができなくなる。そして、そこからこぼれた心の傷、心のケアといった抽象的な概念ばかりが喧伝されることになる。

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