犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

茂木健一郎著 『意識とはなにか』

2007-07-22 14:51:24 | 読書感想文
人間において、自分の意識ほど確実なものはない。これがデカルトの出発点であり、「われ思う、ゆえにわれ在り」という有名なテーゼによって表現される。しかし、近代科学は、デカルトが直面した驚きの瞬間を忘れる。そして、どういうわけかデカルトを境に地球上に近代的合理的人間が生まれて、近代社会がスタートしたというストーリーが作られる。自然科学は、デカルトが発見した意識のほうを忘れて、物質のふるまいだけに着眼し、物質的合理主義を打ち立てることとなった。

デカルトが解けなかった心身二元論は、それがわかりやすい二元論であるがゆえに、そのまま刑法学に利用された。これは、社会のルールとして上手い具合に役に立つものであった。人間には、他人の故意・過失の存在などわからない。実証的な社会科学においては、本来であれば精神や意識のようなものは扱えないはずである。そこで法律学では、この二元論に段階をつけて、客観性を優先させることによって解決を図った。すなわち、まずは客観的構成要件の存在を措定して、主観的構成要件は「その客観面の認識」という形にした。こうして、主観面を客観面に取り込んでいるのが現在の刑法である。

近代科学は、様々な物質からなるこの現実の世界こそが、この世で唯一の確実な存在であると考えた。因果的法則からなる物理的世界のモデルからすれば、千差万別の人間の意識など邪魔である。そこでは、加害者の意識だけを故意・過失という形に変形し、被害者の意識は切り捨てられることとなった。刑法においては、1か所だけ「被害者の同意」という内心が問題とされているが(202条、承諾殺人罪・自殺関与罪)これもあくまでも加害者の側から見て、客観的構成要件の一部として位置づけられているだけである。

このような心身二元論は、その後に登場した現象学、実存主義、構造主義によって、そのツールとしての欠陥が明らかになってきた。今や二元論とは、主観・客観の二元論ではなく、主観・間主観の二元論として捉えざるを得ない。しかし、刑法学は相変わらずデカルトのモデルを利用している。そして、客観面と主観面の重なり合いといったメタファーを持ち出して、収拾がつかなくなっている。事実の錯誤における法定的符合説・具体的符合説・抽象的符合説の争いなど、決着がつくわけがない。法律家は、犯人の脳内の主観を想定して争っているが、それはそもそも自分と論敵の脳内の神経細胞による現象であることを忘れているからである。このような論争は、現在では政治的な政策論としてのみ意味を持つに過ぎない。

犯罪被害者の存在がようやく気付かれてきたことは、近代科学の限界がようやく認識されるようになってきたことと無関係ではない。犯罪被害者保護とは、目に見えないもの、五感では捉えられないものを扱うことである。これは近代科学の限界を超えるものであり、それが見落としたものを掬い上げることである。従って、これを「心の傷」というメタファーを多用することによって、あたかも目で見える物質のように扱ってしまえば、せっかく捉えた問題の核心を取り逃がす。心の傷も、すべては脳の中の1千億個の神経細胞(ニューロン)の活動によって生み出されているものである。「心の闇」も同じである。他者の心は仮想であり、自分自身の心を除き、すべての人間の心は闇である。少年犯罪が起きるたびに「心の闇」というメタファーを多用するならば、問題の核心を取り逃がす。