犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小林和之著 『「おろかもの」の正義論』

2007-06-10 18:36:08 | 読書感想文
平成13年に新設された危険運転致死傷罪は、過失犯ではなく準故意犯として構成された。その立法に際しては、近代刑法の大原則である「過失責任の原則」を根底から変えるものだとして激しい反対論があった。このような理論に欠けていたのは、近代刑法の過失責任の原則も単なる1つの仮説であるとして相対化する視点である。過失責任の原則は、近代社会の発展に尽くす役割を果たしたが、その反面として加害者優遇・被害者冷遇の理論であり、必然的に全体主義的な傾向を生じる。

この世から交通事故の死者を減らすにはどうすればよいか。それには、自動車の最高速度を一律時速30キロに制限すればよい。これが小林氏によって示される論理的な帰結である。非現実的な話であるが、論理的には絶対に否定できない。このような話は単なる机上の空論であり、実際に実行すれば社会は回らなくなり、経済は破綻する。しかしながら、どんなにバカにされたところで、「自動車の最高速度を30キロに制限すれば交通事故の死者が減る」という命題をひっくり返すことができない。この命題は、どうしても反証できない。

悲惨な事故が起きるたびに、マスコミは決まりきったように、「1人1人が命の重さを考える時期に来ているのではないでしょうか」と述べる。しかし、「自動車の速度を時速30キロに制限することも検討すべき時期に来ているのではないでしょうか」と述べることはない。そのことによって、逆に「現代社会は人命尊重が第一である」という命題のほうが机上の空論であることが明らかにされる。「自動車の最高速度を30キロに制限すれば交通事故の死者が減る」という命題が明らかであるのに、それを実行しないことは、「経済を優先することによって人間を何人かひき殺してもやむを得ない」という理論を採用したこと他ならないからである。

現代社会においては生命尊重が第一であるという命題は、厳密に追究すれば、単なるきれいごとである。小林氏は、現代人が苦手としているこの辺の論理を容赦なく暴いている。生命第一主義は建前である。そして、このような問題を純粋に追究していけば、問題は冤罪によって死刑判決が下されることの是非にまで至る。冤罪による死刑が絶対にあってはならないのであれば、交通事故による死亡も絶対にあってはならないのではないか。人間の生命に上下があるわけでなければ、殺され方に上下はないはずである。冤罪の可能性を理由として死刑廃止を訴え、その理由として生命第一主義を掲げるのであれば、自動車の最高速度を30キロに制限しないこととの整合性が取れなくなってしまう。

このような問題について、他人と論争してしまっては、話は全く深まらない。他人との論争は、データの収集合戦に終わることが多い。これに対して、哲学的思考は、あくまでも自問自答によって深めるものである。小林氏は、自分自身の肉声で思想する希少な法哲学者である。法哲学は法解釈学に対して総論の地位にある。法哲学による根本的な懐疑の視点を取り入れることによって、刑法学にも全く新たな視点が開けるはずである。

他者の他我性

2007-06-09 19:41:35 | 時間・生死・人生
人間は生まれて何年かして物心がついた頃、必ず気がつくことがある。それは、「あっ、私がここにいる!」ということである。これが自我である。自分がここにいることは、誰しも認めざるを得ない。事実としてそうなっているからである。そこには何の必然性もない。フッサールは、これを「原事実」と呼ぶ。「あっ、私がここにいる!」という驚きは、それに次いで「あっ、世界がここにある!」という驚きをもたらす。かくして、世界は唯一的である。それは、自分において唯一的である。

もちろん、これはすべての人間にとって共通である。地球上のすべての「自分」、すなわち「他人である自分」にとって共通である。この「他人である自分」の微妙な地位を、哲学的には他我性と呼ぶ。他我とは、他人に存在すると考えられる「我」である。私にとっての「私」と他人にとっての「私」とは決定的に異なるはずであるが、なぜか人称的には重なり合ってしまう。どちらも「私」という1人称である。人間は、普通はこのような状況を忘れているものであるが、この状況の残酷さが襲いかかってくる時がある。それが、どの人間に起こってもおかしくない事態が、他の誰でもない「我が身」に起こった場合である。

このような私にとっての「我が身」と他人にとっての「我が身」との差異といった哲学的な問題は、その問題をその問題として捉えておくしかない。解答は、この問題を問題として捉える内にしかないからである。法律の人権論は、ここでも被害者が自らの苦しみの所在を捉えることの邪魔をする。近代刑法の理論は、人間を単純に権力者と市民とに分け、被告人は検察官に対して防御する立場に置かれる。このようなカテゴリーを押しつけられてしまえば、被害者にとっての「私」と加害者にとっての「私」との人称性が重なっていることの苦しさは見えなくなる。

啓蒙思想に基づく近代刑法の理論は、超越的・上空飛行的な外部の視点を措定し、被害者も加害者も並列しようとする。しかし、そこで得られた超越論的な事実は、生活世界における経験的な事実とは異なる。フッサールの「原事実」を前提に、現象学的に見てみれば、すべては自我と他我によって同一の現出者が構成されている状態である。フッサールはこのような状態を、「直接経験による志向性」、「世界地平的な諸現出の突破」と述べる。生活世界における経験的な事実は、人間においては常に遠近法によって捉えることしかできず、唯一絶対の視点を存在させることはできない。近代刑法の理論は、多くの哲学的な問題を底上げしたフィクションである。犯罪被害者の直面する問題は、その上げ底の部分にある。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 プロローグ

2007-06-08 18:28:47 | 読書感想文
プロローグ 踏み出した一歩

犯罪被害者の声が聞こえるか。最近は被害者がテレビなどを通じて社会に対して訴えることが多く、多くの国民は犯罪被害者の声を物理的には聞いている。問題はその先である。これは英語で言う“hear”と“listen”の違いである。

犯罪によって妻の眞苗さんを失った元第一東京弁護士会会長・元日弁連副会長の岡村勲さんは、このことを端的に述べている。岡村さんは38年間も弁護士として働き、数多くの刑事事件を担当していながらも、被害者のことが見えていなかった。これは不思議なことではない。ソシュールやウィトゲンシュタインが見抜いたように、その人にとって言語化されていないものは、その人にとってはこの世に存在しないからである。

犯罪被害者の声が聞こえるか聞こえないかは、聞く側に100パーセント依存する。同じことを言っても、聞こえる人には聞こえるし、聞こえない人には聞こえない。犯罪被害者の声とは、このような種類の声である。行間の沈黙を聞けるか否か、言葉の裏側の言葉にできない部分を聞けるか否かは、完全に聞く側に委ねられる。これは、聞こえないことによって聞こえるようになり、聞こえることによって聞こえなくなるという種類の声である。哲学的な真実は、いつでも逆説としてしか現れない。

犯罪被害者の声がこのようなものである以上、「犯罪被害者の声が聞こえますか」と聞かれて、「聞こえました」と答えてしまうならば、これは全く聞こえていないことの証拠である。もちろん、「聞こえません」と答えてしまうならば、これは文字通り聞こえていないことを意味してしまう。従って、「犯罪被害者の声が聞こえますか」という問いは、YesともNoとも答えられない。単純に答えられないことの中に答えがある。

犯罪被害者の声は、体験した者にしかわからない。実際に被害者になった者にしかわからない。同じような被害を受けた人々の間でも、それぞれの被害は別々のものである以上、わかり合えないことのほうが多い。東氏の6年間にわたる取材は非常に緻密であり、犯罪被害者の声がこの上なく丁寧に拾われている。しかし、その行間には、さらに何千倍、何万倍という犯罪被害者の声がある。

「無罪」は「無」ではない

2007-06-07 18:18:12 | 時間・生死・人生
存在論は、自分自身の人間存在に対する戦慄と恐怖の経験である。存在論の地点から見てみれば、人権論とは、このような恐怖のごまかしと緩和にすぎない。人権論は希望に満ちて語られる反面、堅苦しくて小難しい。また、明るく語られる反面、政治的な血なまぐささがある。

無罪の推定というイデオロギーがあるが、これも存在論からすれば大した意味はない。そもそも「無罪」という概念は、「有罪」という概念を前提としなければ存在し得ないからである。すなわち、「無が有る」ことを前提としなければ、それは「無罪」ではなく、「無」になってしまう。無罪を有罪よりも先に推定することは、論理的には不可能である。それは、1つの法政策の仮説としてのみ納得しうる。そして、仮説であればいつでも変更することができる。

ハイデガー哲学の根本思想は、存在と無の同一性である。ヘーゲルの弁証法や、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一とも似ているが、ハイデガーはさらに人間の「時間性」に敏感である。これは、「滅びの中の生成」と言われる。ハイデガーにおける存在と存在者との根本的な区別は、プラトンのイデア論にも対応する。「真善美」に当たるものが「存在」であって、それは個々の物を通じてしか表れない。ゆえに、存在は「無と化す」という状態の下でのみ現前することができる。すなわち、存在は現前と同時に不在である。

無罪の推定を絶対化してしまうイデオロギーの誤解の素は、犯罪を個々の存在者のレベルで捉えていることによる。個々の犯罪であれば、あったりなかったりするのは当然の話である。政策論として、罪のない人間を有罪にしてはならないことを優先するという政策を採るならば、そのようなルールを作っておくだけの話である。これは時代や場所によって異なる相対的な話にすぎない。

これに対して、存在者ではなく存在のレベルで犯罪を捉えれば、それは無罪を推定した途端に「無」となる。存在論的には、無罪の推定の理屈はこのような欠陥を抱えている。これが、一般国民には無罪の推定のイデオロギーが非常識に映っている原因である。そして、マスコミや国民が有罪の推定で話を進めている現状のほうが、むしろ人間として自然であることの原因である。人権派弁護士は、いつまでも無罪の推定の常識が庶民に理解されないと嘆いているが、これは当然の話である。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第7章

2007-06-06 18:16:01 | 読書感想文
第7章 犯罪被害者が求めている本当の支援

犯罪被害とは、人間が過酷な運命に直面して実存の深淵に転落することであり、実存不安をもたらす経験である。このような人間の実存不安を支援できるのは、肩書きではなく、やはり人間自身でしかない。その支援は第三者であったほうがよい場合もあれば、気心の知れた近親者であったほうがよい場合もある。これも技術的に細分化するならば、理論だけが一人歩きする危険性がある。「本当の支援」とは、被害者にとって「本当の支援」と感じられるものである。これ以上の定義はできない。

人間は人間である以前に動物であり、犯罪被害に際しては、その生物としての声が発せられる。犯罪被害者の支援に際しては、何よりもこの声を聞くことが目的とされる。聞く側にバイアスがかかっていれば、その声は歪められる以前に、そもそも聞こえない。人間の数だけ人生がある以上、人間の数だけ被害がある。これをケース別に分類しようとすれば、枠からはみ出しているものを無理やりに押し込めることになる。

人間の根本的な悩みは、人生の挫折の経験に端を発する。これは、社会的な文脈とは関係がない。いかに社会正義が実現されようとも、それによって自分の人生の挫折が回復されるわけではないからである。大上段の社会という視点ではなく、地に足の着いた実存の視点によって、犯罪被害者が求めているものが初めて見えてくる。これ以外に、実存の深淵を覗き込む方法はない。

犯罪被害者の苦しみには出口がない。社会科学の文脈は、出口を探そうとして迷う。もしくは、出来合いの出口を押し付けようとする。これらの手法が、犯罪被害者が求めている本当の支援でないことは明らかである。人間の苦しみには出口がない。これが人生であり、これが哲学である。人生とは残酷なものである。しかしながら、その残酷な事実はその事実であることによって、人間がその人生を生きることの意味となる。犯罪被害者はその被害を意味づけしようとして苦しむが、外部に意味を探しに行くことは、その定義によって矛盾である。犯罪被害者が求めている本当の支援は、犯罪被害者自身の中にしかない。

神の目と客観性

2007-06-05 18:29:48 | 時間・生死・人生
刑事裁判においては、人間という生き物の行動を客観的に見る。まずは人間の客観的構成要件該当性を確定してから、主観的構成要件である故意・過失を検討する。これが社会科学たる法律学の客観性の手法である。ここで忘れられているのは、そのような人間の行動を客観的に見ている「目」が一体どこに存在するのかということである。そのような視点が空中に浮揚して、地上を見下ろしていることなど実際にはあり得ない。

しかしながら、刑事裁判における事実認定は、そのような視点を安易に仮設する。法律家の間では、無神論を前提としながら、「神の目から見た真実」などと言われることがある。そして、その神の目との距離によって、目撃証人の証言は信用できる、信用できないなどと評価がなされている。その上で、被告人は「本当は」罪を犯していても、証拠がないため無罪とする、という思考のパターンを採る。

これは非常に単純なカテゴリーである。人間は完全な神の目を持っていないのだから、誤りを犯しやすく、疑わしいときには無罪にしておくという結論である。しかし、そもそも「神の目」などこの世にもあの世にも存在しない。そして、完全な神が存在しないならば、それと不完全な人間との距離も存在しようがない。すべてはフィクションである。

ハイデガー哲学からすれば、そもそも「客観的に罪が成立する」という鈍感な言い回しが否定されなければならない。客観性、神の目など、形を変えた原理主義が人間に安易な思考停止をもたらしているからである。客観性、神の目という概念を使うことを禁じるならば、「罪が成立する」という言い回しの不可能性が明らかになる。

ハイデガーの存在論の実存主義的な側面は、共存在、相互存在と言われる。神の目が地上を見下ろしているのでなければ、人間が相互に地平を見るしかない。そこでは、「客観的に罪が成立している」のではなく、「人間が罪を成立させている」ことがわかる。人間が罪を成立させれば罪は成立し、人間が罪を成立させなければ罪は成立しない。実際に、このように表現するのが最も正確である。この人間とは、特定の個人ではなく、ましてや裁判官でもなく、共存在としての実存のことである。

共存在、相互存在という視点は、独我論と実在論の相互間における無限の反転の瞬間を捉えている。人間が作る社会や国家は、このような共存在の先にある現象である。社会や国家を形成するための大前提が共存在である。この共存在を見落としたまま、社会や国家の枠組で物事を考えているのが、刑事裁判のカテゴリーである。これでは、犯罪被害者が一体何に悩んでいるのかも把握できないのは当然である。「交通事故の被害は文明社会に生きる人間が共同で負うリスクである」などと言う人に限って、自分がその立場に立たされたならば、その運命の残酷さに耐えられない。

池田晶子著 『人間自身 考えることに終わりなく』 第Ⅱ章「『プロ』といえる人」より

2007-06-04 17:28:49 | 読書感想文
裁判に関して、国民の間から必ず起きる声がある。「なぜ弁護士は凶悪犯人の味方をするのか」。そして、これに対する答えも決まっている。「それが弁護士の仕事である」。この応酬は、いつまでも繰り返される。人権派弁護士の答えは、いつになっても国民を納得させることができない。

「仕事だから…」という表現は、生活のために、好きでもない仕事を嫌々ながらやっている場合に用いるものである。もしその仕事に誇りを持っているのであれば、その仕事の内容を説明するはずであって、わざわざ「仕事である」という形式のほうを持ち出す理由がないからである。人権派弁護士が「凶悪犯人の味方をするのは弁護士の使命である」という説明に終始し、なぜ自らがその使命を選択したのかを説明しようとしないならば、それは一種独特の後ろめたさを隠していることに他ならない。

被告人が自分の犯した罪をすべて心の底から反省し、被害者に謝罪し、証拠をすべて提出すれば、その被告人は重い刑に処される。これに対して、被告人が自分の犯した罪を反省せずに否認し、被害者に罪を転嫁し、証拠をすべて隠滅することに成功し、友人に上手くアリバイの偽証を頼めば、その被告人は無罪になる。高い倫理観を持っている人間が重い罪に処されて、低い倫理観を持っている人間は無罪となる。法律とは端的にこのようなものであり、裁判とはそれ以上のものではない。良い悪いではなく、近代刑法とは実際にこのような制度である。そして、これを積極的に推進するのが人権派弁護士の使命である。

人権派弁護士は、憲法31条以下の被告人の人権に関する崇高な条文の理念を列挙する。しかし、そもそも被告人がそのような人権論を主張したくなる根本の動機は何か。これを煎じ詰めれば、すべては一言に収まる。すなわち、「刑を軽くして下さい」。どんなに人身の自由という美辞麗句を重ねたとしても、根底には一言、「刑を軽くしてほしい」という要求がある。被告人における「刑を軽くしてほしい」という欲望がなければ、すべての崇高な人権論を主張する動機は消滅する。被告人が何よりも求めているのは、1日でも早く拘置所や刑務所から解放されてシャバに戻り、物欲・食欲・性欲・金銭欲・名誉欲・自己顕示欲を追求することである。すべてはここに行き着く。この動かぬ被告人の欲望を直視することなしには、犯罪被害者保護法制も上滑りの政策論で終わってしまう。

犯罪被害者保護法制を進めることによって、近代刑法の原則との抵触が生じると言われることがある。しかし、正確に言えば、被告人側からでなく被害者側からものを見るならば、必然的に近代刑法の原則は崩壊せざるを得ない。なぜならば、被害者側からものを見るならば、本来の倫理の形が純粋な形で復活してくるからである。すなわち、被告人は自ら「刑を重くして下さい」と言うのが倫理的には正しい行動であって、「刑を軽くして下さい」という要求はどこまで行っても反倫理的な行動である。「凶悪犯人の味方をするのは弁護士の使命である」という説明が一種独特の後ろめたさを伴わざるを得ないのは、この倫理の力である。もちろん、この倫理を実際に実現することは、欲深い人間にとっては無理である。法律や裁判における正義とは、人間の倫理ではなく、人間の欲望である。

最愛の人を奪われるということ

2007-06-03 18:07:44 | 時間・生死・人生
存在するものは存在し、存在しないものは存在しない。これは当然のことであり、人間であれば誰しも無意識に受け入れている事実である。しかし、最愛の人を犯罪によって突然奪われたとき、存在の問いは人間に対して避けられぬものとして降りかかってくる。

近代社会のシステムは、普段から人間に存在というものを深く考えさせることをしない。人間は、そのような哲学的な問いを心のどこかで考えていながら、日常生活の忙しさの中でそれを忘れようとする。これがハイデガーの20世紀への警告であった。そして、このような近代社会のシステムの技術的な側面の最先端が法律の条文であり、それを扱うのが裁判である。

人間が最愛の人を失ったとき、その喪失感は、この世の他のあらゆる存在を一瞬にして無意味にする。それは、しばしば「時間が止まった」と表現される。政治も経済も、法律も裁判も、単なる天下国家の些事である。社会正義の実現、法治国家の実現など、抽象的な机上の空論である。何の意味もない。人間がこの世に存在して、そして突然存在しなくなってしまう、この残酷さの前には法律も裁判も何の意味もない。

ところが、近代社会のシステムは、ここでも人間に対して存在というものを深く考えさせる場を与えない。犯罪は犯罪として法律の条文を適用し、裁判という流れ作業によって処理される。これが、近代という合理的で理性的な時代が完成したシステムである。ハイデガーは、このような20世紀のシステムを根本から懐疑し、警告した。ハイデガーが捉えていた問題の核心は、犯罪被害者遺族の疎外感と重なっている。法律や裁判が被害者遺族に対してできることは、この世のほんの一部のことである。まずはこのことを認識しておけば、無用な二次的被害の多くを防ぐことができる。

茂木健一郎著 『脳と仮想』

2007-06-02 20:16:01 | 読書感想文
茂木氏が述べているところを法律的に言い換えれば、次のようになる。六法全書に印刷されている「道路交通法」という文字は、インクの染みであって、「道路交通法」ではない。この客観的世界には、どこにも「道路交通法」という実在は存在しない。抽象名詞のみならず、物質名詞ですら、それは世界のどこにもない仮想である。人間は、物自体には決して到達し得ない。これはカントの『純粋理性批判』と同じである。我々が現実だと言っているものは、脳内の神経細胞の活動において、現実の写しとして表れたクオリアのことである。これは、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論にもつながる。

人間は、脳内現象として生じる五感に助けられて、あたかも広大な空間を直接知覚しているかのように感じてしまう。すなわち、あたかも神の視点を獲得しているように錯覚する。そこで、日本のどこかで必ず飲酒運転をしている人間はいるが、自動車検問において発覚しない限りは、それは「罪になっても捕まっていない」のだと表現する。これが暗数というものである。

法律家は、「神の目で見れば真犯人であっても、神ではない人間は不完全な動物であり、誤判の恐れがあるから、証拠不十分で無罪とする」という言い方をする。これは一見すれば神の視点を放棄しているように見えるが、実際は逆である。仮定的に神の視点を取りつつ、それと人間の視点との距離を測っているからである。これは、脳科学から見れば完全に錯覚である。神の視点が本当であれば、それはどこか特定の所に目があるのではなく、空間の至る所に同時並列的に目がなければならないからである。飲酒運転の自動車を、神が空を飛んで見下ろしながら追いかけているといったイメージは、いかにも稚拙である。

「道路交通法違反」という実在が存在するように取り扱うのは、単に政策的な便宜に過ぎない。この世のすべてが脳の神経活動に伴う脳内現象であることが否定できないならば、客観世界に飲酒運転が存在するか否かを探しに行っても見つかるわけがない。「疑わしきは罰せず」というルールは、近代刑法において市民が国家権力を監視する崇高な大原則であると言われるが、実はそんなに大した話でもない。人間の存在形式の限界が暴露されただけであり、この程度の制度で我慢しなさいという話である。

人間の意識という不思議なものの本質は、それが因果的な自然法則に寄り添う形で出現してくる点にある。この経験というものを、数字や論理式に置き換えることのできる狭い経験に限定してしまった近代科学は、これを説明することができない。ところが、近代の自然科学も社会科学も、それを説明することができないこと自体を忘れてしまった。「道路交通法」という法律は、単に必要悪としての社会のルールに過ぎないことを忘れてしまい、それがこの世界のどこかに存在していると思うようになる。

デカルトの以来の近代主義の方法的困難は、茂木氏によって的確に捉えられている。茂木氏の指摘は、法律学にとっては、これまで積み上げてきたすべての理論を壊されるような恐ろしさがある。しかし、犯罪被害者保護の視点を的確に捉えているのは、茂木氏のほうである。法律学は人権といった概念、高度資本主義経済社会に振り回され、犯罪被害者保護政策に右往左往しているが、茂木氏の軸は全くぶれていない。

エポケー(判断中止)

2007-06-01 20:20:45 | 時間・生死・人生
フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859-1938)の現象学におけるエポケー(判断中止)は、学問の基盤であると言われることがある。理論を強引に体系化しようとする学問は、抽象的で空虚な理屈の世界で完結するようになり、現実を見落としがちとなる。ここで現実が現実であることに立ち戻り、直接経験に帰ろうとする態度がエポケーである。これは「事象そのものへ!」という有名なテーゼで語られるが、実際にはフッサールではなく、ハイデガーが『存在と時間』の中で使用したものである。ドイツ観念論は抽象的な思弁に陥りがちであり、科学主義・実証主義も事象そのものを覆い隠す傾向を持っている。

フッサールの地点から見てみると、法律学の概念は、すべて抽象的で空虚な理屈の世界で完結している。それを科学主義・実証主義が補強している。社会正義の実現というイデオロギーは、正義と不正義、市民と権力者という単純な二分法をもたらす。社会正義とは、単に本人が正義だと思いこんでいるものを社会に投影したものにすぎず、すべての正義は本人の正義感に他ならない。人間の数だけ正義感がある以上、統一した社会正義の実現を目指すならば、それは独善同士の争いとなる。そこでは義憤のパターン化が起こり、学問が政治に変わってゆく。

法律の条文で捉えられた世界は、あくまでも理念化された社会である。法律家が自らの行為をエポケーしてみれば、目の前には六法全書があって、自分はその文字を読んでいること以上のものではない。ところが、理念を強引に体系化しようとする法律学は、理念化された社会が真の世界であり、客観的な世界だと思い込むようになる。この作用が、法律を事件に「あてはめる」という錯覚である。そこでは法律が先であり、人間が後である。あくまでも人間が法律の中にあてはめられる。これは、高次の世界によって低次の世界を覆い隠すという科学主義・実証主義のパラダイムの表れである。

人間は自らの表象の外には出られないが、通常は自らが表象の外に出ているものと誤解しがちである。これは人間の社会生活にとってはごく一般的なことであって、フッサールも「自然的態度」と呼んでいる。これに根本的な揺さぶりを掛けるのがエポケーという現象学の手法であり、これは「超越論的還元」と呼ばれる。これがすべての学問の基盤としての有用性を持つならば、法律学にも根本的な揺さぶりが掛かるはずである。法律学における主観性とは、権力者の恣意的な権力濫用を意味するものでしかない。客観性の客観性たる基礎そのものへの探究がなされていない学問は、政治としては意味があるとしても、学問としては表面的な思考水準を脱することができないからである。