犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『人間自身 考えることに終わりなく』 第Ⅱ章「『プロ』といえる人」より

2007-06-04 17:28:49 | 読書感想文
裁判に関して、国民の間から必ず起きる声がある。「なぜ弁護士は凶悪犯人の味方をするのか」。そして、これに対する答えも決まっている。「それが弁護士の仕事である」。この応酬は、いつまでも繰り返される。人権派弁護士の答えは、いつになっても国民を納得させることができない。

「仕事だから…」という表現は、生活のために、好きでもない仕事を嫌々ながらやっている場合に用いるものである。もしその仕事に誇りを持っているのであれば、その仕事の内容を説明するはずであって、わざわざ「仕事である」という形式のほうを持ち出す理由がないからである。人権派弁護士が「凶悪犯人の味方をするのは弁護士の使命である」という説明に終始し、なぜ自らがその使命を選択したのかを説明しようとしないならば、それは一種独特の後ろめたさを隠していることに他ならない。

被告人が自分の犯した罪をすべて心の底から反省し、被害者に謝罪し、証拠をすべて提出すれば、その被告人は重い刑に処される。これに対して、被告人が自分の犯した罪を反省せずに否認し、被害者に罪を転嫁し、証拠をすべて隠滅することに成功し、友人に上手くアリバイの偽証を頼めば、その被告人は無罪になる。高い倫理観を持っている人間が重い罪に処されて、低い倫理観を持っている人間は無罪となる。法律とは端的にこのようなものであり、裁判とはそれ以上のものではない。良い悪いではなく、近代刑法とは実際にこのような制度である。そして、これを積極的に推進するのが人権派弁護士の使命である。

人権派弁護士は、憲法31条以下の被告人の人権に関する崇高な条文の理念を列挙する。しかし、そもそも被告人がそのような人権論を主張したくなる根本の動機は何か。これを煎じ詰めれば、すべては一言に収まる。すなわち、「刑を軽くして下さい」。どんなに人身の自由という美辞麗句を重ねたとしても、根底には一言、「刑を軽くしてほしい」という要求がある。被告人における「刑を軽くしてほしい」という欲望がなければ、すべての崇高な人権論を主張する動機は消滅する。被告人が何よりも求めているのは、1日でも早く拘置所や刑務所から解放されてシャバに戻り、物欲・食欲・性欲・金銭欲・名誉欲・自己顕示欲を追求することである。すべてはここに行き着く。この動かぬ被告人の欲望を直視することなしには、犯罪被害者保護法制も上滑りの政策論で終わってしまう。

犯罪被害者保護法制を進めることによって、近代刑法の原則との抵触が生じると言われることがある。しかし、正確に言えば、被告人側からでなく被害者側からものを見るならば、必然的に近代刑法の原則は崩壊せざるを得ない。なぜならば、被害者側からものを見るならば、本来の倫理の形が純粋な形で復活してくるからである。すなわち、被告人は自ら「刑を重くして下さい」と言うのが倫理的には正しい行動であって、「刑を軽くして下さい」という要求はどこまで行っても反倫理的な行動である。「凶悪犯人の味方をするのは弁護士の使命である」という説明が一種独特の後ろめたさを伴わざるを得ないのは、この倫理の力である。もちろん、この倫理を実際に実現することは、欲深い人間にとっては無理である。法律や裁判における正義とは、人間の倫理ではなく、人間の欲望である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。