犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「無罪」は「無」ではない

2007-06-07 18:18:12 | 時間・生死・人生
存在論は、自分自身の人間存在に対する戦慄と恐怖の経験である。存在論の地点から見てみれば、人権論とは、このような恐怖のごまかしと緩和にすぎない。人権論は希望に満ちて語られる反面、堅苦しくて小難しい。また、明るく語られる反面、政治的な血なまぐささがある。

無罪の推定というイデオロギーがあるが、これも存在論からすれば大した意味はない。そもそも「無罪」という概念は、「有罪」という概念を前提としなければ存在し得ないからである。すなわち、「無が有る」ことを前提としなければ、それは「無罪」ではなく、「無」になってしまう。無罪を有罪よりも先に推定することは、論理的には不可能である。それは、1つの法政策の仮説としてのみ納得しうる。そして、仮説であればいつでも変更することができる。

ハイデガー哲学の根本思想は、存在と無の同一性である。ヘーゲルの弁証法や、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一とも似ているが、ハイデガーはさらに人間の「時間性」に敏感である。これは、「滅びの中の生成」と言われる。ハイデガーにおける存在と存在者との根本的な区別は、プラトンのイデア論にも対応する。「真善美」に当たるものが「存在」であって、それは個々の物を通じてしか表れない。ゆえに、存在は「無と化す」という状態の下でのみ現前することができる。すなわち、存在は現前と同時に不在である。

無罪の推定を絶対化してしまうイデオロギーの誤解の素は、犯罪を個々の存在者のレベルで捉えていることによる。個々の犯罪であれば、あったりなかったりするのは当然の話である。政策論として、罪のない人間を有罪にしてはならないことを優先するという政策を採るならば、そのようなルールを作っておくだけの話である。これは時代や場所によって異なる相対的な話にすぎない。

これに対して、存在者ではなく存在のレベルで犯罪を捉えれば、それは無罪を推定した途端に「無」となる。存在論的には、無罪の推定の理屈はこのような欠陥を抱えている。これが、一般国民には無罪の推定のイデオロギーが非常識に映っている原因である。そして、マスコミや国民が有罪の推定で話を進めている現状のほうが、むしろ人間として自然であることの原因である。人権派弁護士は、いつまでも無罪の推定の常識が庶民に理解されないと嘆いているが、これは当然の話である。

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