犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

神の目と客観性

2007-06-05 18:29:48 | 時間・生死・人生
刑事裁判においては、人間という生き物の行動を客観的に見る。まずは人間の客観的構成要件該当性を確定してから、主観的構成要件である故意・過失を検討する。これが社会科学たる法律学の客観性の手法である。ここで忘れられているのは、そのような人間の行動を客観的に見ている「目」が一体どこに存在するのかということである。そのような視点が空中に浮揚して、地上を見下ろしていることなど実際にはあり得ない。

しかしながら、刑事裁判における事実認定は、そのような視点を安易に仮設する。法律家の間では、無神論を前提としながら、「神の目から見た真実」などと言われることがある。そして、その神の目との距離によって、目撃証人の証言は信用できる、信用できないなどと評価がなされている。その上で、被告人は「本当は」罪を犯していても、証拠がないため無罪とする、という思考のパターンを採る。

これは非常に単純なカテゴリーである。人間は完全な神の目を持っていないのだから、誤りを犯しやすく、疑わしいときには無罪にしておくという結論である。しかし、そもそも「神の目」などこの世にもあの世にも存在しない。そして、完全な神が存在しないならば、それと不完全な人間との距離も存在しようがない。すべてはフィクションである。

ハイデガー哲学からすれば、そもそも「客観的に罪が成立する」という鈍感な言い回しが否定されなければならない。客観性、神の目など、形を変えた原理主義が人間に安易な思考停止をもたらしているからである。客観性、神の目という概念を使うことを禁じるならば、「罪が成立する」という言い回しの不可能性が明らかになる。

ハイデガーの存在論の実存主義的な側面は、共存在、相互存在と言われる。神の目が地上を見下ろしているのでなければ、人間が相互に地平を見るしかない。そこでは、「客観的に罪が成立している」のではなく、「人間が罪を成立させている」ことがわかる。人間が罪を成立させれば罪は成立し、人間が罪を成立させなければ罪は成立しない。実際に、このように表現するのが最も正確である。この人間とは、特定の個人ではなく、ましてや裁判官でもなく、共存在としての実存のことである。

共存在、相互存在という視点は、独我論と実在論の相互間における無限の反転の瞬間を捉えている。人間が作る社会や国家は、このような共存在の先にある現象である。社会や国家を形成するための大前提が共存在である。この共存在を見落としたまま、社会や国家の枠組で物事を考えているのが、刑事裁判のカテゴリーである。これでは、犯罪被害者が一体何に悩んでいるのかも把握できないのは当然である。「交通事故の被害は文明社会に生きる人間が共同で負うリスクである」などと言う人に限って、自分がその立場に立たされたならば、その運命の残酷さに耐えられない。