犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

事実の哲学と規範の法律学

2007-06-19 15:34:50 | 実存・心理・宗教
法律は人間に対して、「~してはいけない」「~すべきだ」という規範を提示する。ニーチェ哲学からすれば、このような法律の基準に頼って自らの行動を決定することは、端的に実存的不安からの逃避である。とりあえず多数決で決めたルールは、単なる必要悪にすぎず、いつでも変更される可能性があるからである。時と場所によって相対的に変わるルールを絶対視することは、この世の現実がはらんでいる恐るべき無秩序を直視せず、現実を隠蔽する自己欺瞞にすぎない。

ニーチェ哲学が鋭く指摘しているのは、道徳の最小限たる法律が、世の中の現実の率直な認識をねじ曲げているということである。犯罪被害者は裁判の現状に対して、「加害者ばかりが優先されているのはおかしい」という声を上げる。このような意見は、法律の専門家からは一笑に付される。「加害者が優先されるのもやむを得ない」というのではない。「加害者は優先されてなどいない、さらに被告人の人権を保障しなければならない」というのが法治国家の真理である。ここでは、被害者の言い分のほうが実存的であり、その意味で地に足が着いている。

「~してはいけない」「~すべきだ」という規範はあくまで理想であり、現実ではない。法律というものは、常に世の中の必要悪、次善の策、とりあえずの仮説でしかあり得ない。哲学の立場から見れば、法律はこのような存在にすぎないことは容易に理解できる。しかし、細分化した法律学は、それ自体で独立の真理を探究せずにはいられなくなる。「あるべき」理想像から現在を逆算して、いつの間にか規範から事実を導いてしまう。ここから世の中の現実の率直な認識をねじ曲げるという転倒が生じる。これもニーチェが洞察した事実である。

犯罪被害者は自らの実感として、裁判の現状に対して、「加害者ばかりが優先されているのはおかしい」という感想を持つ。これに対して法律の専門家は、机上の空論によって「加害者は優先されてなどいない」と述べる。これは、専門家のほうが物事が見えなくなっている典型的な例である。法律学の文脈を離れて、哲学の視点から距離を置いて眺めてみれば、事態は全く別の様相を呈してくる。