犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第13章「物」より

2007-06-12 18:32:18 | 読書感想文
本屋の法律書のコーナーに行くと、暮らしの法律に関する本は非常に多い。悪質商法対策、契約書の書式、離婚による財産分与から遺言の書き方のノウハウまで、一般向けの法律書は幅広い。これに対して、同じ法律や裁判の問題であっても、犯罪被害者保護法制に関する本は少ない。ほとんど見られないと言ってもよい状態である。

これは、テーマが重くて、世の中の多数派のニーズと合わないという理由だけではない。近代社会では、犯罪という現象は法律学が扱うことになっているが、そもそもこの守備範囲の分け方に問題があった。法律の言語は、実は犯罪という現象を記述するのが苦手である。実学である法律学は、政治的な利害の調整をするのが精一杯である。死者は帰らず、時間は戻らないといった側面については、文学や詩のほうが適任である。刑法の条文よりも、「千の風になって」の歌詞のほうに説得力がある。


p.191~ より抜粋

学問の場面で、「人生」という言葉を出すことすら憚られるような風潮の中で、学者たちは、そも自分が何を考えようとしていたのかすら、忘れ果てているようである。細分化された学問の、なお細分化された各種学派の、そのうえ細分化された各種専門用語で競い合うに忙しく、「人生」? そんなものは私生活のことじゃないか、といったふうである。

むろん、学問の場面でいきなり「人生」とは語り出せない。照れもあるのだろう、いくぶん洗練された感じをもつ「生」とは、使われている言葉のようだが、そのぶん一般化されてしまい、他の誰かのものとは取換えのきかないこの自分のこの生、という意味合いが薄れてしまうように思われる。人生の一回性、すなわち、抜きさしならない歴史性というありようが、取落とされてしまうように思われる。

学問が窮理だけであってはならない、日用であってこそ本当に学問なのだという巷間によく聞くあの主張は、そも窮理ということを知らない心性によってなされている。生活に役立ってこそ学問だというあの主張は、当然のことを言っているようで、ちょっと考えればおかしいとわかる。単に生活に役立つための知恵ならば、わざわざ学問を経由してこなければならない理由がないからである。

人生を収めて、わがものとするためには、これを生きてみて学ぶより他あるまい。出来事は常に一回限りの個性的な姿でわれわれを訪れるから、そのつどその「条件」に、こちらの意のままには決してならないその「節度」に、添おうと努めなければ、これを知ることをできないのはわかりきったことだ。心などという空漠たるものが、この人生とは別のどこかにあるかのように論じ、まずそれを知り収めてから人生に向かうなどあり得ないではないか。そういう根本の錯誤があるから、窮理主義など、どこまで窮めても空しいのだ。