犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

他者の他我性

2007-06-09 19:41:35 | 時間・生死・人生
人間は生まれて何年かして物心がついた頃、必ず気がつくことがある。それは、「あっ、私がここにいる!」ということである。これが自我である。自分がここにいることは、誰しも認めざるを得ない。事実としてそうなっているからである。そこには何の必然性もない。フッサールは、これを「原事実」と呼ぶ。「あっ、私がここにいる!」という驚きは、それに次いで「あっ、世界がここにある!」という驚きをもたらす。かくして、世界は唯一的である。それは、自分において唯一的である。

もちろん、これはすべての人間にとって共通である。地球上のすべての「自分」、すなわち「他人である自分」にとって共通である。この「他人である自分」の微妙な地位を、哲学的には他我性と呼ぶ。他我とは、他人に存在すると考えられる「我」である。私にとっての「私」と他人にとっての「私」とは決定的に異なるはずであるが、なぜか人称的には重なり合ってしまう。どちらも「私」という1人称である。人間は、普通はこのような状況を忘れているものであるが、この状況の残酷さが襲いかかってくる時がある。それが、どの人間に起こってもおかしくない事態が、他の誰でもない「我が身」に起こった場合である。

このような私にとっての「我が身」と他人にとっての「我が身」との差異といった哲学的な問題は、その問題をその問題として捉えておくしかない。解答は、この問題を問題として捉える内にしかないからである。法律の人権論は、ここでも被害者が自らの苦しみの所在を捉えることの邪魔をする。近代刑法の理論は、人間を単純に権力者と市民とに分け、被告人は検察官に対して防御する立場に置かれる。このようなカテゴリーを押しつけられてしまえば、被害者にとっての「私」と加害者にとっての「私」との人称性が重なっていることの苦しさは見えなくなる。

啓蒙思想に基づく近代刑法の理論は、超越的・上空飛行的な外部の視点を措定し、被害者も加害者も並列しようとする。しかし、そこで得られた超越論的な事実は、生活世界における経験的な事実とは異なる。フッサールの「原事実」を前提に、現象学的に見てみれば、すべては自我と他我によって同一の現出者が構成されている状態である。フッサールはこのような状態を、「直接経験による志向性」、「世界地平的な諸現出の突破」と述べる。生活世界における経験的な事実は、人間においては常に遠近法によって捉えることしかできず、唯一絶対の視点を存在させることはできない。近代刑法の理論は、多くの哲学的な問題を底上げしたフィクションである。犯罪被害者の直面する問題は、その上げ底の部分にある。