犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第7章

2007-06-06 18:16:01 | 読書感想文
第7章 犯罪被害者が求めている本当の支援

犯罪被害とは、人間が過酷な運命に直面して実存の深淵に転落することであり、実存不安をもたらす経験である。このような人間の実存不安を支援できるのは、肩書きではなく、やはり人間自身でしかない。その支援は第三者であったほうがよい場合もあれば、気心の知れた近親者であったほうがよい場合もある。これも技術的に細分化するならば、理論だけが一人歩きする危険性がある。「本当の支援」とは、被害者にとって「本当の支援」と感じられるものである。これ以上の定義はできない。

人間は人間である以前に動物であり、犯罪被害に際しては、その生物としての声が発せられる。犯罪被害者の支援に際しては、何よりもこの声を聞くことが目的とされる。聞く側にバイアスがかかっていれば、その声は歪められる以前に、そもそも聞こえない。人間の数だけ人生がある以上、人間の数だけ被害がある。これをケース別に分類しようとすれば、枠からはみ出しているものを無理やりに押し込めることになる。

人間の根本的な悩みは、人生の挫折の経験に端を発する。これは、社会的な文脈とは関係がない。いかに社会正義が実現されようとも、それによって自分の人生の挫折が回復されるわけではないからである。大上段の社会という視点ではなく、地に足の着いた実存の視点によって、犯罪被害者が求めているものが初めて見えてくる。これ以外に、実存の深淵を覗き込む方法はない。

犯罪被害者の苦しみには出口がない。社会科学の文脈は、出口を探そうとして迷う。もしくは、出来合いの出口を押し付けようとする。これらの手法が、犯罪被害者が求めている本当の支援でないことは明らかである。人間の苦しみには出口がない。これが人生であり、これが哲学である。人生とは残酷なものである。しかしながら、その残酷な事実はその事実であることによって、人間がその人生を生きることの意味となる。犯罪被害者はその被害を意味づけしようとして苦しむが、外部に意味を探しに行くことは、その定義によって矛盾である。犯罪被害者が求めている本当の支援は、犯罪被害者自身の中にしかない。

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