犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 プロローグ

2007-06-08 18:28:47 | 読書感想文
プロローグ 踏み出した一歩

犯罪被害者の声が聞こえるか。最近は被害者がテレビなどを通じて社会に対して訴えることが多く、多くの国民は犯罪被害者の声を物理的には聞いている。問題はその先である。これは英語で言う“hear”と“listen”の違いである。

犯罪によって妻の眞苗さんを失った元第一東京弁護士会会長・元日弁連副会長の岡村勲さんは、このことを端的に述べている。岡村さんは38年間も弁護士として働き、数多くの刑事事件を担当していながらも、被害者のことが見えていなかった。これは不思議なことではない。ソシュールやウィトゲンシュタインが見抜いたように、その人にとって言語化されていないものは、その人にとってはこの世に存在しないからである。

犯罪被害者の声が聞こえるか聞こえないかは、聞く側に100パーセント依存する。同じことを言っても、聞こえる人には聞こえるし、聞こえない人には聞こえない。犯罪被害者の声とは、このような種類の声である。行間の沈黙を聞けるか否か、言葉の裏側の言葉にできない部分を聞けるか否かは、完全に聞く側に委ねられる。これは、聞こえないことによって聞こえるようになり、聞こえることによって聞こえなくなるという種類の声である。哲学的な真実は、いつでも逆説としてしか現れない。

犯罪被害者の声がこのようなものである以上、「犯罪被害者の声が聞こえますか」と聞かれて、「聞こえました」と答えてしまうならば、これは全く聞こえていないことの証拠である。もちろん、「聞こえません」と答えてしまうならば、これは文字通り聞こえていないことを意味してしまう。従って、「犯罪被害者の声が聞こえますか」という問いは、YesともNoとも答えられない。単純に答えられないことの中に答えがある。

犯罪被害者の声は、体験した者にしかわからない。実際に被害者になった者にしかわからない。同じような被害を受けた人々の間でも、それぞれの被害は別々のものである以上、わかり合えないことのほうが多い。東氏の6年間にわたる取材は非常に緻密であり、犯罪被害者の声がこの上なく丁寧に拾われている。しかし、その行間には、さらに何千倍、何万倍という犯罪被害者の声がある。