犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

最愛の人を奪われるということ

2007-06-03 18:07:44 | 時間・生死・人生
存在するものは存在し、存在しないものは存在しない。これは当然のことであり、人間であれば誰しも無意識に受け入れている事実である。しかし、最愛の人を犯罪によって突然奪われたとき、存在の問いは人間に対して避けられぬものとして降りかかってくる。

近代社会のシステムは、普段から人間に存在というものを深く考えさせることをしない。人間は、そのような哲学的な問いを心のどこかで考えていながら、日常生活の忙しさの中でそれを忘れようとする。これがハイデガーの20世紀への警告であった。そして、このような近代社会のシステムの技術的な側面の最先端が法律の条文であり、それを扱うのが裁判である。

人間が最愛の人を失ったとき、その喪失感は、この世の他のあらゆる存在を一瞬にして無意味にする。それは、しばしば「時間が止まった」と表現される。政治も経済も、法律も裁判も、単なる天下国家の些事である。社会正義の実現、法治国家の実現など、抽象的な机上の空論である。何の意味もない。人間がこの世に存在して、そして突然存在しなくなってしまう、この残酷さの前には法律も裁判も何の意味もない。

ところが、近代社会のシステムは、ここでも人間に対して存在というものを深く考えさせる場を与えない。犯罪は犯罪として法律の条文を適用し、裁判という流れ作業によって処理される。これが、近代という合理的で理性的な時代が完成したシステムである。ハイデガーは、このような20世紀のシステムを根本から懐疑し、警告した。ハイデガーが捉えていた問題の核心は、犯罪被害者遺族の疎外感と重なっている。法律や裁判が被害者遺族に対してできることは、この世のほんの一部のことである。まずはこのことを認識しておけば、無用な二次的被害の多くを防ぐことができる。

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