犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第2章・第3章

2007-06-20 16:41:44 | 読書感想文
第2章 弁護士から被害者に・第3章 ゼロからのスタート

刑事裁判において、犯罪被害者や遺族が被告や証人に質問したり、求刑の意見を述べることができる「被害者参加制度」の新設を柱とした刑事訴訟法改正案が、本日午後、参議院本会議でようやく可決成立した。岡村勲弁護士が求めていた念願の制度である。これは問題の解決ではなく、問題の始まりであると言われるが、至極当然のことである。新たな制度を作れば、思いもよらない新たな問題が起こってくることも当然であり、これも弁証法の動きの1つである。弊害を恐れて何らの新たな制度も作らないというのは、単なる政治的な意見にすぎない。始めてみないうちからあれこれと想像しても仕方がないことである。

岡村さんは、元第一東京弁護士会会長・元日弁連副会長である。この岡村さんが自らを省みてその心中を独白したことは、我が国の法曹界にとっては恐るべきことである。恐るべきことは、それを恐れている人によって、「恐ろしくない」と言い張られるものである。岡村さん自身、常に「国家」対「被告人」という図式で刑事司法を考え、憲法と刑事訴訟法に盛り込まれた理念に深く傾倒し、その価値を信じて疑っていなかった。その裏側で、被害者が置き去りにされているという事実に思い当たることはなかった。

人間というものは、その立場にならなければ物事が見えない。従って、裁判官や弁護士にはもちろんのこと、検察官にも被害者の存在はよく見えない。刑事裁判とは被害者を救済する場ではないからである。法治国家のイデオロギーは、社会の隅々まで法律によって支配を及ぼしているように見えるけれども、実際にはこの世のほんの一部の事象しか扱うことができていない。岡村さん自身がこのことを証明してしまった。日弁連副会長まで務めた人物が、自らの過ちを正面から認めてしまったからである。

この世のほんの一部の事象を法律の言語によってしか取り上げることしかできない裁判制度は、その制度自身が無力である。しかし、法治国家のイデオロギーは、その無力さのひずみを被害者に向けてしまう。犯罪被害者は蚊帳の外に追い出された。犯罪被害者の絶望と二次的被害は、このような法治国家のシステムによって人為的にもたらされたものである。

しかしながら、これは逆から見れば、法律家が狭い蚊帳の中に閉じこもったことでもある。狭い蚊帳の中で法律の理屈をゴチャゴチャとこね回して、狭い宇宙で完結していることである。これは、蚊帳の外の膨大な問題を解決する力がないということであり、蚊帳の外の声を恐れるということに他ならない。近代刑法を駆使する法治国家が被害者の声を取り上げなかったことも、一方では単なる軽視と見落としであるが、他方では恐れによる黙殺の契機を含んでいる。

岡村さんは、第一東京弁護士会会長・日弁連副会長まで務めていながら、自ら全国犯罪被害者の会の結成に動いた。これは、第一東京弁護士会や日弁連とは必然的に思想的に対立することを意味する。日弁連の側も犯罪被害者保護活動をしているが、岡村さんが目指しているものとは異なっており、あまり本気ではないということである。先日、刑事訴訟法改正案に反対する日弁連の平山正剛会長に対し、岡村さんの主催する「あすの会」が公開討論を申し込んだところ、これを拒否したという出来事があった。これも人権論が被害者の声を恐れており、逃避するしかないことを証明してしまった例である。

事実の哲学と規範の法律学

2007-06-19 15:34:50 | 実存・心理・宗教
法律は人間に対して、「~してはいけない」「~すべきだ」という規範を提示する。ニーチェ哲学からすれば、このような法律の基準に頼って自らの行動を決定することは、端的に実存的不安からの逃避である。とりあえず多数決で決めたルールは、単なる必要悪にすぎず、いつでも変更される可能性があるからである。時と場所によって相対的に変わるルールを絶対視することは、この世の現実がはらんでいる恐るべき無秩序を直視せず、現実を隠蔽する自己欺瞞にすぎない。

ニーチェ哲学が鋭く指摘しているのは、道徳の最小限たる法律が、世の中の現実の率直な認識をねじ曲げているということである。犯罪被害者は裁判の現状に対して、「加害者ばかりが優先されているのはおかしい」という声を上げる。このような意見は、法律の専門家からは一笑に付される。「加害者が優先されるのもやむを得ない」というのではない。「加害者は優先されてなどいない、さらに被告人の人権を保障しなければならない」というのが法治国家の真理である。ここでは、被害者の言い分のほうが実存的であり、その意味で地に足が着いている。

「~してはいけない」「~すべきだ」という規範はあくまで理想であり、現実ではない。法律というものは、常に世の中の必要悪、次善の策、とりあえずの仮説でしかあり得ない。哲学の立場から見れば、法律はこのような存在にすぎないことは容易に理解できる。しかし、細分化した法律学は、それ自体で独立の真理を探究せずにはいられなくなる。「あるべき」理想像から現在を逆算して、いつの間にか規範から事実を導いてしまう。ここから世の中の現実の率直な認識をねじ曲げるという転倒が生じる。これもニーチェが洞察した事実である。

犯罪被害者は自らの実感として、裁判の現状に対して、「加害者ばかりが優先されているのはおかしい」という感想を持つ。これに対して法律の専門家は、机上の空論によって「加害者は優先されてなどいない」と述べる。これは、専門家のほうが物事が見えなくなっている典型的な例である。法律学の文脈を離れて、哲学の視点から距離を置いて眺めてみれば、事態は全く別の様相を呈してくる。

呉智英・佐藤幹夫 共編著 『刑法三九は削除せよ! 是か非か』

2007-06-18 18:27:56 | 読書感想文
「刑法39条は削除せよ! 是か非か」。この疑問文は、あまり上手いとはいえない。まず主語がよくわからない。条文は無機質で非人称である。条文を主語にする主張には、隠れた主語として「私」がある。「刑法39条は削除すべきだ」「刑法39条は削除されるべきだ」という意見は、「私は『刑法39条は削除されるべきだ』と思う」ということである。条文の改廃に関する議論は、私はこう思う、私は正しい、あなたは間違っているという形になるのが関の山である。

人間の脳は、他者とは決定的に断絶している。これは、赤色・青色のスペクトル問題として究極的に表れる。「あなたの見ている赤は、私の見ている赤と同じ色をしているのか」。これはわからない。脳科学はこの謎をクオリアによって解明しようとしているが、分析哲学においては一応の結論が出ている。すなわち、他人の見ている赤色は、自分の見ている赤色と同じであると仮定するのが言語ゲームのルールである。この赤色が実際には同じではなかったとしても、人間は絶対にそのことに気付くことはできない。

責任能力、すなわち事物の是非・善悪を弁別し、それに従って行動する能力も、このスペクトル問題の延長である。裁判においては、弁別能力が「存在したのか」、行動能力が「存在したのか」がテーマとされる。そして、鑑定によって加害者に責任能力があったのかなかったのかが明らかになるという前提の下に、精神鑑定という制度が置かれている。これは刑法39条において、構成要件該当性の充足を前提に、その責任阻却事由としての消極的要件として責任無能力が掲げられていることに伴うものである。

しかしながら、加害者の脳は他者と決定的に断絶している。もちろん鑑定人の精神科医といえども、その中に入ることはできない。従って、すべては言語ゲームのルールの問題に解消されざるを得ない。責任能力の存在・不存在は、自分の赤色が他人の赤色と同じであることと同じように、最後は仮定に委ねざるを得ない問題である。特に弁別能力・行動能力は物質ではなく抽象名詞であるから、それをある・なしの形で提示しようとするならば、純粋な部分的言語ゲームの遂行の問題に直面せざるを得ない。

複数の精神鑑定の結果がすれ違うのは、しごく当然のことである。複数の鑑定人の脳も断絶しているからである。人間は言語ゲームの網の目から出られない以上、精神鑑定によって加害者に責任能力があるか否かが明確に判定できる日が来ることを期待し続ける。しかし、人間が赤色・青色のスペクトル問題を解けない限りは、加害者が詐病を装っていることを見破ることなどできない。そして、弁護側が戦術として責任能力を争おうとする限りにおいて、加害者の詐病への欲望は消えることがない。

人を裁くな

2007-06-17 13:20:24 | 実存・心理・宗教
新約聖書には「人を裁くな」という一節がある(ルカ伝6章37節~42節)。それではいったい裁判所はどうすればいいのか。冗談のような悩みであるが、この問いの中にニーチェの洞察の鍵がある。「人の支配から法の支配へ」という自然法の思想は、キリスト教の道徳をそのまま引き継いでいる。

一神教における絶対的な神は、人間に対して高圧的に君臨する。不完全な人間は、神の前では卑小であるという位置づけである。これと同じように、人権思想における絶対的な人権は、人間に対して高圧的に君臨する。人間が神の影響を離れて人間の理性を取り戻したにもかかわらず、やはり一神教的な絶対性を払拭できていない。ここでは、不完全な人間は、人権の前では卑小であるという位置づけがなされる。

「人を裁くな」という命令は、自然法の思想によって、神の命令から人間の理性による命令へと変更される。このような位置づけの下において、人間が人間を裁くことができる条件は、不完全で過ちを犯しやすい人間を理性で縛ることである。そこでは、同じ人間でありながら、「裁く人間」の過ちのみに着目し、「裁かれる人間」の過ちには着目しない。ここから被害者の見落としが生ずる。

「人の支配から法の支配へ」という自然法の思想は、卑小な人間は間違いを犯しがちであるから、権力者の過ちを理性的な法で監視しなければならないというものである。権力者の過ちとは、警察官の誤認逮捕であり、検察官による無実の者の起訴であり、裁判官による冤罪の誤判のことである。ここでは、そもそもの始まりである最初の犯罪については、過ちというカテゴリーに含めていない。これはキリスト教のカテゴリーと同じである。

もし本当に「人を裁くな」を実行したならば、社会には誰も裁く者がいなくなり、大混乱に陥る。その後始末については、キリスト教は無責任に放置している。犯罪被害者の見落としは、この無責任な放置の流れの先にある。

中島義道著 『怒る技術』

2007-06-16 11:04:54 | 読書感想文
犯罪や裁判は怒りの連鎖である。人間は些細なことに怒って、すぐに暴力的な犯罪に走る。取調べにおいては、警察官や検察官が大声で怒鳴る。裁判においては、被告人や弁護士が、取調べで怒鳴られたことの不当性を訴えて怒る。しかし、それを見た被害者が傍聴席から怒りの声を上げれば、裁判官から怒られて退廷を命じられる。

刑事裁判のシステムにおいて、最も怒りが閉じ込められているのは被害者である。現在のシステムにおいては、被害者に対してのみ、人為的に怒りのやり場が完全に消されている。被害者の裁判参加に消極的な立場からは、何よりも法廷が感情的になって混乱することを防止すべきだとされる。

それでは、検察官は被害者の怒りを代弁することができるか。これは無理な話である。いちいち被害者の怒りを代弁していては、検察官の身がもたない。ストレスで潰れてしまう。検察官が怒っているのは、あくまでも仕事上の義務であり、怒ることが仕事だからである。被害者との間に利害関係はない。タフな検察官とは、被害者に感情移入せず、上手く感情管理をしている人間である。すなわち、被告人と被害者に対して怒っているポーズを見せるということである。「表層感情」と「深層感情」の区別である。

検察官は、あくまでも被害者の怒りを代弁するふりをしなければならない。すなわち、本当に感情移入してはならないということである。高度に専門化されて分業化された法治国家を生き抜くには、人間は今やこのように行動するしかない。法治国家は、どこまでも被害者を疎外する構造になっている。そして、それが合理的で公正中立な裁判であるということになっている。

被害者がどうしても裁判参加を求めたくなるのは、このような検察官の怒りが、どこまでも表層感情であることを見抜いているからである。裁判の法廷は、1日に何件もある。ついさっきまでは別の被害者を代弁して怒っていたのに、次の時間にはまた別の被害者を代弁して怒っており、この流れ作業が延々と続く。被害者は検察庁に行っても、検察事務官や検察官はいつも忙しくバタバタと走り回り、夜中まで残業しており、落ち着いて話もできない。これでは被害者の疎外感はなかなか消えない。

被害者の裁判参加において、実際に被害者はどのように怒ればいいのか。法廷が感情的になって混乱することはないのか。そのヒントが中島氏によって示されている。それが「感情管理」であり、「準言語の活用」である。中島氏は、光市母子殺害事件の本村洋氏を模範的な例として挙げている。すなわち、どこまでも冷静に、激情することなく、しかも激情的な言葉で聞き手を追い詰める方法である。これは高度に洗練された方法である。怒ることと、怒りを伝えることとは異なる。怒らないことによって、逆に怒りが伝わることもある。

「被相続人」とは何者なのか

2007-06-15 18:39:37 | 時間・生死・人生
殺人罪、業務上過失致死罪といった裁判は、真実が明らかにされるものと期待すればするほど、実際の法廷とのギャップに愕然とするものである。これは、ハイデガーの死の哲学から見てみれば、ごくごく当たり前の帰結である。人間は、生きている間は人権を持っている。これは法律学の視点である。他方、人間は生きている間にのみ、「人間は生きている間は人権を持っている」と考えることができる。これはメタの視点である。メタの視点は、法律学自身では扱えない。

裁判官や学者などの法律家は、法律の客観的な意味を探る。しかし、その客観性を認識できるのは、その人間である法律家が生きている間のみである。どんなに法律が客観的に存在すると言っても、その人間という主観が消滅してしまった場合には、客観性も同時に消滅する。法律学の枠組では、自分自身の消滅、すなわち自分自身の死は扱えない。殺人罪を研究している刑法の学者は、通り魔で殺されても、自分を殺した犯人の裁判を見ることだけはできない。相続を研究している民法の学者は、自分自身の相続の光景だけは見ることができない。

法律では、相続をする人のことを「相続人」、相続される人のことを「被相続人」と呼ぶ。例によって、遺言や遺産分割をめぐる骨肉の争いを解決する手法である。ところが、哲学的にこの「被相続人」というものを見てみると、非常にふざけた概念である。人間は、死んだ瞬間に「人」ではなくなるが、それによって被相続「人」になるという話である。このような用語法を何の疑問もなく受け入れている法律学の思考が、死という不可解なものを解決できるわけがない。

法律学の文脈では、他人の死は条文に変換できる。しかし、自分自身の死は条文上の問題ではない。自分が生きていることが大前提であり、大前提それ自体は疑われない。自己言及は、循環論法もしくは無限後退を引き起こす。法律学では、もともと人間の死というものを扱えない。条文上の要件に押し込めた結果として、死という現象を正面から理解することをあきらめている。

殺人犯は、人を殺しておきながら、裁判において自分の人権だけを主張する。これも法律学の枠組からは、当然の結末である。死は理解できないから、とりあえず生きている人間の人権を保障すればいいだけの話である。殺された被害者は、人権論の枠組には入ってこない。人間は、生きている間にのみ人権を持っているからである。人間の死というものを扱えない法律学からすれば、このような結末はごく自然である。

このような法律学の文脈が一般国民や被害者遺族に違和感をもたらすのは、法律学が人間の死というものを扱えないにもかかわらず、その無力さを隠しているからである。そして、被害者を裁判から疎外した上で、社会正義の実現の名の下に殺人行為や死亡事故を裁いているからである。人間の死を扱えない裁判制度が、それを扱えるふりをしている。被害者遺族の怒りと悲しみは、ここにおいて増幅される。法律学には死は扱えないがゆえに、死を扱うことができていると勘違いしている。哲学は死を扱うことができるがゆえに、死を扱うことは無理であると自覚している。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第1章

2007-06-14 18:35:42 | 読書感想文
第1章 犯罪被害者の過酷な生活

「全国犯罪被害者の会(あすの会)」のメンバーである岡本真寿美さんは、平成6年の2月、男性に突然ガソリンをかけられて全身に大やけどを負った。その後、皮膚の移植手術を24回も受け、今なお後遺症に苦しんでいる。加害者からは、賠償はおろか謝罪の言葉さえない。第1章ではこのような言語を絶する体験が詳しく再現され、細かく言語化されている。

戦後50年、悲惨な犯罪の数だけの悲惨な被害者が存在した。しかし、冤罪事件の苦しみは色々と詳しく語られ、被告人の人権を保護する動きは盛り上がっていた一方、犯罪被害者の苦しみはほとんど語られず、被害者には目が向けられてこなかった。その原因は、学問的な熟慮の結果としての選択によるものではない。冤罪事件の苦しみは語りやすいが、犯罪被害の苦しみは語りにくいことに基づくものである。

冤罪事件の苦しみを語る者は、怒りながらも、その怒りを表明することを自ら望むことができる。警察権力という悪に対して、自らは絶対的な正義の地位に立つことが保障されているからである。冤罪事件の苦しみを語る者は、その苦しみを忘れたがらない。これに対して、犯罪被害の苦しみを語ることは、いかなる意味でも望まれることではない。すべての怒りや苦しみ、悲しみや悩みは自分自身に返ってくる。犯罪被害の苦しみは、語り継ぐことを望まれながらも、同時に忘れ去ることも望まれるものである。かくして、冤罪事件の苦しみの声ばかりが社会に表明され、犯罪被害の苦しみの声は社会に出てこなくなった。こうして我が国では、犯罪被害者は論理の必然として、岡村さんが述べているとおり「棄民」扱いを受けることになる。

もしも自分や自分の大切な人が被害に遭ってしまったら、という想像は、それ自体が犯罪の二次的被害である。そのような事態は考えたくもないし、そもそも想像を絶する話である。被害者の絶望的な悲しみは、被害に遭った者しかわからない。これが、犯罪被害者の存在が長きにわたって見落とされたことの論理的な理由であり、悲惨な事件のたびに世論が盛り上がるが長続きしないことの論理的な理由である。

犯罪被害者は誰しも過酷な生活を送らざるを得ないが、言語化されないものは社会に共有されない。岡本さんの言語を絶する体験も、もし岡村勲さんが「犯罪被害者の会」を結成していなければ、この社会においてこのような形で文字にされることはなかった。言葉が社会を作り、言葉が法律を作る以上、被害者の言葉がこの国の社会や法律を動かすことは当然である。冤罪事件の苦しみを語る言語は政治的であるが、犯罪被害の苦しみを語る言語は哲学的である以上、両者が捉えている地点の深さは全く異なる。

十年一日の刑事裁判

2007-06-13 16:49:17 | 時間・生死・人生
3人の幼い子供たちが死亡した昨年8月の飲酒運転事故の初公判が、福岡地方裁判所で開かれた。そこでは、この上ない典型的な刑事裁判の光景が展開された。被告人は、罪状認否に関係のないところでは、「心底罪悪感でいっぱいです」、「真っ暗な海の中でたくさんの水を飲み、苦しみながら亡くなった子供たちのことを思うと、どうおわび申し上げていいのか言葉が見つかりません」、「一生懸けても誠心誠意償っていきたい。本当にすみませんでした」などと涙声交じりに謝罪の言葉を述べた。しかし、構成要件に直接関わるところでは、「正常な運転が困難になるほど飲酒していませんでした」、「衝突した車が海に落ちたことに全く気付かなかった」と語った。まさに十年一日、典型的な刑事裁判の戦略である。

死者に人権はない。人権論の理屈からすればその通りである。この帰結は、人権論の側から見てみれば、死者の軽さを示している。しかし、人間の生死という哲学的な根本問題の側から見てみれば、それは人権論の軽さを示している。人権論は、所詮はその程度のイデオロギーである。人権論は人間が生きていることを大前提としており、その大前提である生死そのものを扱う力はない。従って、刑事裁判が人間の生死を扱うときには、必然的に学芸会の様相を呈することになる。

存在論の根本は、生の事実性に気がつくことである。生きている人間は生きており、死んでいるのではない。「私は生きている」というためには、人間は生きている必要がある。この生が今ここに存在するということ、存在論とはこの当たり前の事実に驚くことである。そこには、人権論などという理屈は必要ない。3人の幼い子供たちが死亡したという事実の前には、本来であれば、人間は仰々しい裁判の儀式など真面目にできるはずもない。

どういうわけか宇宙には地球という星があって、そこに誕生した人類という生き物が、とりあえずのルールとして人権という概念や、裁判という制度を発明しただけの話である。哲学者から見れば、法律家の細かい議論は滑稽に見える。人権論は人間が生きていることを大前提とするならば、そのように議論を進めればいいだけの話である。

死者に人権はないという人権論からの論理展開は、犯罪被害者遺族の問題を説明する力がないことを示している。そうであるならば、その無力さは人権論それ自身に向けられるべきものであって、被害者遺族に向けるべきものではない。「加害者の人権ばかりが優先されて被害者の人権が蔑ろにされている」と言われてしまうのは、人権論はもともとその程度の力しか持っていないからである。従って、人権論から無罪の推定、そして厳格な近代刑法の理屈を何よりも重視する刑事裁判は、どうしても下手な学芸会のようになってしまう。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第13章「物」より

2007-06-12 18:32:18 | 読書感想文
本屋の法律書のコーナーに行くと、暮らしの法律に関する本は非常に多い。悪質商法対策、契約書の書式、離婚による財産分与から遺言の書き方のノウハウまで、一般向けの法律書は幅広い。これに対して、同じ法律や裁判の問題であっても、犯罪被害者保護法制に関する本は少ない。ほとんど見られないと言ってもよい状態である。

これは、テーマが重くて、世の中の多数派のニーズと合わないという理由だけではない。近代社会では、犯罪という現象は法律学が扱うことになっているが、そもそもこの守備範囲の分け方に問題があった。法律の言語は、実は犯罪という現象を記述するのが苦手である。実学である法律学は、政治的な利害の調整をするのが精一杯である。死者は帰らず、時間は戻らないといった側面については、文学や詩のほうが適任である。刑法の条文よりも、「千の風になって」の歌詞のほうに説得力がある。


p.191~ より抜粋

学問の場面で、「人生」という言葉を出すことすら憚られるような風潮の中で、学者たちは、そも自分が何を考えようとしていたのかすら、忘れ果てているようである。細分化された学問の、なお細分化された各種学派の、そのうえ細分化された各種専門用語で競い合うに忙しく、「人生」? そんなものは私生活のことじゃないか、といったふうである。

むろん、学問の場面でいきなり「人生」とは語り出せない。照れもあるのだろう、いくぶん洗練された感じをもつ「生」とは、使われている言葉のようだが、そのぶん一般化されてしまい、他の誰かのものとは取換えのきかないこの自分のこの生、という意味合いが薄れてしまうように思われる。人生の一回性、すなわち、抜きさしならない歴史性というありようが、取落とされてしまうように思われる。

学問が窮理だけであってはならない、日用であってこそ本当に学問なのだという巷間によく聞くあの主張は、そも窮理ということを知らない心性によってなされている。生活に役立ってこそ学問だというあの主張は、当然のことを言っているようで、ちょっと考えればおかしいとわかる。単に生活に役立つための知恵ならば、わざわざ学問を経由してこなければならない理由がないからである。

人生を収めて、わがものとするためには、これを生きてみて学ぶより他あるまい。出来事は常に一回限りの個性的な姿でわれわれを訪れるから、そのつどその「条件」に、こちらの意のままには決してならないその「節度」に、添おうと努めなければ、これを知ることをできないのはわかりきったことだ。心などという空漠たるものが、この人生とは別のどこかにあるかのように論じ、まずそれを知り収めてから人生に向かうなどあり得ないではないか。そういう根本の錯誤があるから、窮理主義など、どこまで窮めても空しいのだ。

条文の中の生死

2007-06-11 18:15:30 | 時間・生死・人生
法律学とは、客観性を至上命題とする学問である。そして、裁判の実務に携わる法律家は、この世に客観的に存在する法律の客観的な意味を探る。しかしながら、どうしても客観的には処理できないものが出てくる。それが人間の生と死である。人間は、他人の人生を生きることはできない。自分は他人の代わりに生きることはできないし、他人の代わりに死ぬこともできない。同じように、他人は自分の代わりに生きることはできないし、自分の代わりに死ぬこともできない。

それにもかかわらず、法律学は人間の生死を扱う。しかも、条文において客観的に扱う。刑法199条には「人を殺した」と定めており、刑法210条には「人を死亡させた」と定めている。人間の生死は、客観的な条文の中に閉じ込められている。それでは、本来このように客観的に処理できない人間の生死の本質部分はどこへ行ってしまったのか。答えは、「忘れる」である。裁判の実務に携わる法律家は、このような哲学的な問題を忘れないことには仕事にならない。人間が一度しか生きられないこと、従って一度しか死ねないことは、客観的な条文には書けない。書けないことは忘れるしかない。

法律学は、犯罪者の故意・過失といった内心を「主観面」と位置づけ、それを法律に適用することによって、犯罪という社会現象を客観的に捉えている。しかし、そのような視点を可能にするためには、法律家という別の人間の主観性を持ち込んでいる必要がある。客観性を仮定するためには、それを別の主観性で置き換えていなければならない。これは無限後退に陥る。ハイデガーの「死の哲学」は、この無限後退に正面から立ち向かったものであり、法律学はこの無限後退を忘れたものである。

裁判官も弁護士も、裁判に参加できているのは、彼らが生きているからである。自分自身が生きているからこそ、他人の殺人事件を扱うことができる。殺人事件の裁判は、このような自己言及の矛盾の上に成立しているが、法律家はそのような矛盾を忘れることによって仕事をしている。人間である法律家が、人間の存在というものをとりあえず忘れ、目の前の法廷に集中することによって、裁判制度は成り立っている。この忘れた部分に、犯罪被害者遺族が求めていることの核心が含まれている。

法律学の理論が行き渡りすぎると、犯罪被害者遺族自身も、この問題の核心を見失ってしまうことがある。そして、死に何らかの意味を付与しようとして、それを裁判に求めてしまうことになる。哲学的な問題を哲学的な視点を抜きに解決しようとしても、なかなか核心が捉えられないような気になるのは当然のことである。