犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

死刑反対の道徳論

2007-06-23 10:38:14 | 実存・心理・宗教
ニーチェが危険な思想家だと言われるのは、道徳の欺瞞と人間の本音を見破ってしまったからである。道徳においては、犯罪は悪であると喧伝される。殺人は悪であり、あってはならないことである。積極的に善を行い、悪を撲滅すべき道徳論からは、これを曲げるわけにはいかない。ところが、現に殺人事件はある。殺人犯に対して道徳は無力である。ここで道徳は、被害者遺族に対してのみ、その力を発揮する。仇討ちをしてはならず、死刑を求めてはならないという決まりごととしてである。死刑とは国家による殺人に他ならず、遺族が求めているのは殺人の実行に他ならならないという論理である。

いくら道徳が殺人は悪であると訴えたところで、現に人間は他人を殺したいと思うことがある。そして、それを実行に移してしまったのが殺人事件である。それならば、遺族が死刑を求めることも同様である。現に遺族は死刑を求めており、それが実行に移されるのが死刑の執行である。道徳は、起きてしまった道徳違反に対しては無力であり、未だ起きていない道徳違反の可能性に対してのみ効力を有する。従って、死刑反対の道徳論は、殺人事件の発生と死刑の執行の間においてのみ喧伝されるが、死刑が執行されてしまえば無力である。死刑反対の道徳論は、特定の時間軸を仮構してのみ効力を有する。

被害者遺族にとっては、死刑の執行は善である。死刑とは国家による殺人に他ならないとすれば、この殺人は善である。そうであるならば、犯罪は悪であるという道徳の真理性は疑わしくなる。道徳論は、殺人は一般的に悪であるという大原則を立ててしまうため、国家による死刑も悪であるという主張を導かざるを得なくなる。ところが、現に被害者遺族は、国家による殺人は善であると主張している。死刑反対の道徳論も、この事実自体は否定しようがない。その殺人が善であるか悪であるかは、すべての生きている人間において、自分自身にとって善であるか悪であるかに依存している。その意味では、最愛の人を殺された人にしかその悲しみはわからず、死刑反対の道徳論は万人にとって普遍ではない。

ニーチェによれば、道徳とは、個々の人間が心底から納得して得たものではない。それは、もともとは単なるこの世の便宜であり、人間によって信仰されることによって外在化する。従って、個々の人間が心底から考え抜いた結果として、その道徳に反する結果に至る場合があることは当然である。道徳が唯一の正しい答えだと信じることは、自己欺瞞をもたらし、自己における善悪の基準を崩すことになる。死刑反対の道徳論には、その意味で二重の誤解がある。1つは善悪を形式ではなく内容で捉えていることであり、もう1つは起きてしまった殺人事件に対して無力であることを隠していることである。