犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

茂木健一郎著 『脳と仮想』

2007-06-02 20:16:01 | 読書感想文
茂木氏が述べているところを法律的に言い換えれば、次のようになる。六法全書に印刷されている「道路交通法」という文字は、インクの染みであって、「道路交通法」ではない。この客観的世界には、どこにも「道路交通法」という実在は存在しない。抽象名詞のみならず、物質名詞ですら、それは世界のどこにもない仮想である。人間は、物自体には決して到達し得ない。これはカントの『純粋理性批判』と同じである。我々が現実だと言っているものは、脳内の神経細胞の活動において、現実の写しとして表れたクオリアのことである。これは、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論にもつながる。

人間は、脳内現象として生じる五感に助けられて、あたかも広大な空間を直接知覚しているかのように感じてしまう。すなわち、あたかも神の視点を獲得しているように錯覚する。そこで、日本のどこかで必ず飲酒運転をしている人間はいるが、自動車検問において発覚しない限りは、それは「罪になっても捕まっていない」のだと表現する。これが暗数というものである。

法律家は、「神の目で見れば真犯人であっても、神ではない人間は不完全な動物であり、誤判の恐れがあるから、証拠不十分で無罪とする」という言い方をする。これは一見すれば神の視点を放棄しているように見えるが、実際は逆である。仮定的に神の視点を取りつつ、それと人間の視点との距離を測っているからである。これは、脳科学から見れば完全に錯覚である。神の視点が本当であれば、それはどこか特定の所に目があるのではなく、空間の至る所に同時並列的に目がなければならないからである。飲酒運転の自動車を、神が空を飛んで見下ろしながら追いかけているといったイメージは、いかにも稚拙である。

「道路交通法違反」という実在が存在するように取り扱うのは、単に政策的な便宜に過ぎない。この世のすべてが脳の神経活動に伴う脳内現象であることが否定できないならば、客観世界に飲酒運転が存在するか否かを探しに行っても見つかるわけがない。「疑わしきは罰せず」というルールは、近代刑法において市民が国家権力を監視する崇高な大原則であると言われるが、実はそんなに大した話でもない。人間の存在形式の限界が暴露されただけであり、この程度の制度で我慢しなさいという話である。

人間の意識という不思議なものの本質は、それが因果的な自然法則に寄り添う形で出現してくる点にある。この経験というものを、数字や論理式に置き換えることのできる狭い経験に限定してしまった近代科学は、これを説明することができない。ところが、近代の自然科学も社会科学も、それを説明することができないこと自体を忘れてしまった。「道路交通法」という法律は、単に必要悪としての社会のルールに過ぎないことを忘れてしまい、それがこの世界のどこかに存在していると思うようになる。

デカルトの以来の近代主義の方法的困難は、茂木氏によって的確に捉えられている。茂木氏の指摘は、法律学にとっては、これまで積み上げてきたすべての理論を壊されるような恐ろしさがある。しかし、犯罪被害者保護の視点を的確に捉えているのは、茂木氏のほうである。法律学は人権といった概念、高度資本主義経済社会に振り回され、犯罪被害者保護政策に右往左往しているが、茂木氏の軸は全くぶれていない。

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