犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小林和之著 『「おろかもの」の正義論』

2007-06-10 18:36:08 | 読書感想文
平成13年に新設された危険運転致死傷罪は、過失犯ではなく準故意犯として構成された。その立法に際しては、近代刑法の大原則である「過失責任の原則」を根底から変えるものだとして激しい反対論があった。このような理論に欠けていたのは、近代刑法の過失責任の原則も単なる1つの仮説であるとして相対化する視点である。過失責任の原則は、近代社会の発展に尽くす役割を果たしたが、その反面として加害者優遇・被害者冷遇の理論であり、必然的に全体主義的な傾向を生じる。

この世から交通事故の死者を減らすにはどうすればよいか。それには、自動車の最高速度を一律時速30キロに制限すればよい。これが小林氏によって示される論理的な帰結である。非現実的な話であるが、論理的には絶対に否定できない。このような話は単なる机上の空論であり、実際に実行すれば社会は回らなくなり、経済は破綻する。しかしながら、どんなにバカにされたところで、「自動車の最高速度を30キロに制限すれば交通事故の死者が減る」という命題をひっくり返すことができない。この命題は、どうしても反証できない。

悲惨な事故が起きるたびに、マスコミは決まりきったように、「1人1人が命の重さを考える時期に来ているのではないでしょうか」と述べる。しかし、「自動車の速度を時速30キロに制限することも検討すべき時期に来ているのではないでしょうか」と述べることはない。そのことによって、逆に「現代社会は人命尊重が第一である」という命題のほうが机上の空論であることが明らかにされる。「自動車の最高速度を30キロに制限すれば交通事故の死者が減る」という命題が明らかであるのに、それを実行しないことは、「経済を優先することによって人間を何人かひき殺してもやむを得ない」という理論を採用したこと他ならないからである。

現代社会においては生命尊重が第一であるという命題は、厳密に追究すれば、単なるきれいごとである。小林氏は、現代人が苦手としているこの辺の論理を容赦なく暴いている。生命第一主義は建前である。そして、このような問題を純粋に追究していけば、問題は冤罪によって死刑判決が下されることの是非にまで至る。冤罪による死刑が絶対にあってはならないのであれば、交通事故による死亡も絶対にあってはならないのではないか。人間の生命に上下があるわけでなければ、殺され方に上下はないはずである。冤罪の可能性を理由として死刑廃止を訴え、その理由として生命第一主義を掲げるのであれば、自動車の最高速度を30キロに制限しないこととの整合性が取れなくなってしまう。

このような問題について、他人と論争してしまっては、話は全く深まらない。他人との論争は、データの収集合戦に終わることが多い。これに対して、哲学的思考は、あくまでも自問自答によって深めるものである。小林氏は、自分自身の肉声で思想する希少な法哲学者である。法哲学は法解釈学に対して総論の地位にある。法哲学による根本的な懐疑の視点を取り入れることによって、刑法学にも全く新たな視点が開けるはずである。

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