犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

呉智英・佐藤幹夫 共編著 『刑法三九は削除せよ! 是か非か』

2007-06-18 18:27:56 | 読書感想文
「刑法39条は削除せよ! 是か非か」。この疑問文は、あまり上手いとはいえない。まず主語がよくわからない。条文は無機質で非人称である。条文を主語にする主張には、隠れた主語として「私」がある。「刑法39条は削除すべきだ」「刑法39条は削除されるべきだ」という意見は、「私は『刑法39条は削除されるべきだ』と思う」ということである。条文の改廃に関する議論は、私はこう思う、私は正しい、あなたは間違っているという形になるのが関の山である。

人間の脳は、他者とは決定的に断絶している。これは、赤色・青色のスペクトル問題として究極的に表れる。「あなたの見ている赤は、私の見ている赤と同じ色をしているのか」。これはわからない。脳科学はこの謎をクオリアによって解明しようとしているが、分析哲学においては一応の結論が出ている。すなわち、他人の見ている赤色は、自分の見ている赤色と同じであると仮定するのが言語ゲームのルールである。この赤色が実際には同じではなかったとしても、人間は絶対にそのことに気付くことはできない。

責任能力、すなわち事物の是非・善悪を弁別し、それに従って行動する能力も、このスペクトル問題の延長である。裁判においては、弁別能力が「存在したのか」、行動能力が「存在したのか」がテーマとされる。そして、鑑定によって加害者に責任能力があったのかなかったのかが明らかになるという前提の下に、精神鑑定という制度が置かれている。これは刑法39条において、構成要件該当性の充足を前提に、その責任阻却事由としての消極的要件として責任無能力が掲げられていることに伴うものである。

しかしながら、加害者の脳は他者と決定的に断絶している。もちろん鑑定人の精神科医といえども、その中に入ることはできない。従って、すべては言語ゲームのルールの問題に解消されざるを得ない。責任能力の存在・不存在は、自分の赤色が他人の赤色と同じであることと同じように、最後は仮定に委ねざるを得ない問題である。特に弁別能力・行動能力は物質ではなく抽象名詞であるから、それをある・なしの形で提示しようとするならば、純粋な部分的言語ゲームの遂行の問題に直面せざるを得ない。

複数の精神鑑定の結果がすれ違うのは、しごく当然のことである。複数の鑑定人の脳も断絶しているからである。人間は言語ゲームの網の目から出られない以上、精神鑑定によって加害者に責任能力があるか否かが明確に判定できる日が来ることを期待し続ける。しかし、人間が赤色・青色のスペクトル問題を解けない限りは、加害者が詐病を装っていることを見破ることなどできない。そして、弁護側が戦術として責任能力を争おうとする限りにおいて、加害者の詐病への欲望は消えることがない。