犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

マンガのような刑事裁判

2007-06-29 23:47:20 | 実存・心理・宗教
山口県光市の母子殺害事件で、元少年は亡くなった本村夕夏ちゃんを押し入れの天袋に入れた理由について、「四次元ポケットでドラえもんが何とかしてくれると思った」と話した。高等裁判所もバカにされたものである。これでは裁判というよりもマンガである。それも、ドラえもんのような面白いマンガではない。ドラえもんに失礼である。

父親の本村洋さんは、「聞くに堪えない3日間。あまりにも身勝手な主張が多く、亡くなった者への尊厳のかけらも見えなかった」と語気を強めた。当然のことである。これは弁護士だけではなく、同じ土俵に乗って大真面目で論駁しあっている検察官や裁判官に対してもあてはまる。近代法治国家では、どんなに幼稚な弁解であっても、法律家はその土俵に乗って議論せざるを得ない。変だとわかっていてもやめられない。そうであれば、人間は法治国家のマンガのような儀式を続けるしかないが、それでも変なものが変でなくなるわけではない。

日本国憲法31条から40条には、被疑者や被告人の人権に関する崇高な理念が述べられている。しかし、現実に刑事裁判においては、この条文は被告人による稚拙な弁解や、弁護士による技巧的な屁理屈を正当化するために利用されていることが多い。これは原理主義として押し付けられ、宗教的な色彩を帯びる。それゆえに、厳粛な高等裁判所の法廷に場違いな「ドラえもんの四次元ポケット」が登場しても、なぜだか調和してしまうことになる。

このようなギャップを目の前にすれば、哲学的な態度としては、条文のほうに問題があるのではないかと疑うのが当然である。これに対して、近代刑法の大原則を信じて疑わない立場からすれば、このようなギャップもやむを得ないものとして切り捨てる。もちろんそれだけでは説得力がないため、例によって過去の権力者による恣意的な刑罰権の発動によって国民の基本的人権が踏みにじられた苦い歴史の教訓を持ち出す。大原則は大原則であるから、疑いを述べることはタブーとなる。

被害者が法廷における被告人の言動によってさらに傷つくことは、やはり人間として許しがたいと感じる。この世の常識は、地に足が着いた理論である。人間が自然に身につけている常識の中には、哲学的な真実がある。哲学は何よりも常識的な結論に納まらねばならない。これに対して、被害者を悲しませようが苦しめようが、被告人は法廷では徹底して自己中心になることが許され、自己弁護することができるというのが現在の法律の立場である。ここには1つの逆転がある。

この逆転を謙虚に直視するならば、法律は必要悪としての次善の策であり、便宜的なものに過ぎないことがわかる。被告人は素直に反省し、被害者に謝罪することが倫理的には正しい行動ではあるが、現在の法律はあえて反倫理的な行動を認めているだけの話である。ここで反倫理的な行動を正義として正当化しようとするならば、それはやはり原理主義として押し付けられ、宗教的な色彩を帯びる。反論の許されない原理原則とは、「神」の別名である。

近代刑法学の理論は、国家が人間の集まりであることを忘れて、国家権力という観念を実在させ、それに向かって戦いを挑む。これに対して哲学は、人間の人生というものから絶対に離れず、国家は単に人間の集まりに過ぎないことを忘れない。従って、前者は被害者というものの存在を軽視するが、後者は被害者の人生そのものを全力で考えようとする。近代刑法学の大原則を前提とする限り、犯罪被害者が傷つけられることは当然である。被告人のどんな弁解も大真面目で聞くならば、法廷がマンガのようになるのは必然だからである。