犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件の21人の弁護団

2007-06-27 17:37:40 | 実存・心理・宗教
光市母子殺害事件の差し戻し審において、元少年が母親と女児への殺意を否認し、例によって物議をかもしている。ここで、被告人が自分を弁護するのは憲法上の権利であって、元少年を批判をするのは近代刑事裁判の原理を理解していないといった議論に乗ってしまえば、事態は一歩も動かなくなる。

被告人の人権を救済するために国家権力と戦うというスタンスは、間違いなく革新的・左翼的である。それとの関係で、犯罪被害者保護は保守的・右翼的な活動と見られることもある。しかしながら、犯罪被害者の苦しみは、それ自体右でも左でもない。保守も革新も、それぞれこの世には絶対的な真理が存在するという政治的な争いであるが、犯罪被害者の苦しみはそのような政治的な争いではない。

ニーチェ哲学の視点を応用してみれば、事態は次のように見えてくる。日本の刑事裁判は、これまで啓蒙思想に基づく近代刑法の原則に忠実に従ってきた。キリスト教の自然法、天賦人権論の流れは、この世には絶対的な真理が存在するという原理主義を引き継いできた。宗教の力が衰えた後は、人権そのものが絶対的な真理となった。これは政治的であり、革新的・左翼的である。ここでは、人権の存在に疑問を持つこと、異議を唱えることはタブーとなる。かくして戦後50年、被害者からの素朴な疑問は、大上段の原義原則で政治的に抑えられてきた。

犯罪被害者の声は、自らの苦しい経験を通じて、自分の頭で考えた末の生きた思想である。国民が被害者の苦しみに共感することも同様である。これは、哲学というものの基本的なあり方と一致する。哲学とは、自分の人生そのものの悩みや苦しみを全身で受け止めて考え抜き、それを絞り出して言語化する作業である。それは政治的な主義主張ではない。しかし、物事を政治的に捉える法曹界は、犯罪被害者の声も政治的な文脈でしか受け止められない。法曹界からは、犯罪被害者の声やそれを後押しする世論は「感情的」であって、「学問的に見るべきところはない」と位置づけられてきた。

しかし、このような哲学的な指摘が政治のパラダイムで上手く処理できるわけがない。市民の人権を救済するために国家権力と戦っているはずの弁護士が、あろうことか市民の1人である被害者を苦しめるという自己矛盾を犯しているからである。人権派弁護士が厳罰化や被害者の裁判参加に反対するためには、被害者保護の動きを保守的・右翼的な活動と位置づけるしかない。しかしながら、右でも左でもない犯罪被害者の声にレッテルを貼っても、問題を無意味に複雑にするだけである。その意味では、元少年の21人の大弁護団の意見は、真面目に聞けば聞くほど、哲学的な真実から遠ざかる。