犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

条文の中の生死

2007-06-11 18:15:30 | 時間・生死・人生
法律学とは、客観性を至上命題とする学問である。そして、裁判の実務に携わる法律家は、この世に客観的に存在する法律の客観的な意味を探る。しかしながら、どうしても客観的には処理できないものが出てくる。それが人間の生と死である。人間は、他人の人生を生きることはできない。自分は他人の代わりに生きることはできないし、他人の代わりに死ぬこともできない。同じように、他人は自分の代わりに生きることはできないし、自分の代わりに死ぬこともできない。

それにもかかわらず、法律学は人間の生死を扱う。しかも、条文において客観的に扱う。刑法199条には「人を殺した」と定めており、刑法210条には「人を死亡させた」と定めている。人間の生死は、客観的な条文の中に閉じ込められている。それでは、本来このように客観的に処理できない人間の生死の本質部分はどこへ行ってしまったのか。答えは、「忘れる」である。裁判の実務に携わる法律家は、このような哲学的な問題を忘れないことには仕事にならない。人間が一度しか生きられないこと、従って一度しか死ねないことは、客観的な条文には書けない。書けないことは忘れるしかない。

法律学は、犯罪者の故意・過失といった内心を「主観面」と位置づけ、それを法律に適用することによって、犯罪という社会現象を客観的に捉えている。しかし、そのような視点を可能にするためには、法律家という別の人間の主観性を持ち込んでいる必要がある。客観性を仮定するためには、それを別の主観性で置き換えていなければならない。これは無限後退に陥る。ハイデガーの「死の哲学」は、この無限後退に正面から立ち向かったものであり、法律学はこの無限後退を忘れたものである。

裁判官も弁護士も、裁判に参加できているのは、彼らが生きているからである。自分自身が生きているからこそ、他人の殺人事件を扱うことができる。殺人事件の裁判は、このような自己言及の矛盾の上に成立しているが、法律家はそのような矛盾を忘れることによって仕事をしている。人間である法律家が、人間の存在というものをとりあえず忘れ、目の前の法廷に集中することによって、裁判制度は成り立っている。この忘れた部分に、犯罪被害者遺族が求めていることの核心が含まれている。

法律学の理論が行き渡りすぎると、犯罪被害者遺族自身も、この問題の核心を見失ってしまうことがある。そして、死に何らかの意味を付与しようとして、それを裁判に求めてしまうことになる。哲学的な問題を哲学的な視点を抜きに解決しようとしても、なかなか核心が捉えられないような気になるのは当然のことである。