犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島義道著 『怒る技術』

2007-06-16 11:04:54 | 読書感想文
犯罪や裁判は怒りの連鎖である。人間は些細なことに怒って、すぐに暴力的な犯罪に走る。取調べにおいては、警察官や検察官が大声で怒鳴る。裁判においては、被告人や弁護士が、取調べで怒鳴られたことの不当性を訴えて怒る。しかし、それを見た被害者が傍聴席から怒りの声を上げれば、裁判官から怒られて退廷を命じられる。

刑事裁判のシステムにおいて、最も怒りが閉じ込められているのは被害者である。現在のシステムにおいては、被害者に対してのみ、人為的に怒りのやり場が完全に消されている。被害者の裁判参加に消極的な立場からは、何よりも法廷が感情的になって混乱することを防止すべきだとされる。

それでは、検察官は被害者の怒りを代弁することができるか。これは無理な話である。いちいち被害者の怒りを代弁していては、検察官の身がもたない。ストレスで潰れてしまう。検察官が怒っているのは、あくまでも仕事上の義務であり、怒ることが仕事だからである。被害者との間に利害関係はない。タフな検察官とは、被害者に感情移入せず、上手く感情管理をしている人間である。すなわち、被告人と被害者に対して怒っているポーズを見せるということである。「表層感情」と「深層感情」の区別である。

検察官は、あくまでも被害者の怒りを代弁するふりをしなければならない。すなわち、本当に感情移入してはならないということである。高度に専門化されて分業化された法治国家を生き抜くには、人間は今やこのように行動するしかない。法治国家は、どこまでも被害者を疎外する構造になっている。そして、それが合理的で公正中立な裁判であるということになっている。

被害者がどうしても裁判参加を求めたくなるのは、このような検察官の怒りが、どこまでも表層感情であることを見抜いているからである。裁判の法廷は、1日に何件もある。ついさっきまでは別の被害者を代弁して怒っていたのに、次の時間にはまた別の被害者を代弁して怒っており、この流れ作業が延々と続く。被害者は検察庁に行っても、検察事務官や検察官はいつも忙しくバタバタと走り回り、夜中まで残業しており、落ち着いて話もできない。これでは被害者の疎外感はなかなか消えない。

被害者の裁判参加において、実際に被害者はどのように怒ればいいのか。法廷が感情的になって混乱することはないのか。そのヒントが中島氏によって示されている。それが「感情管理」であり、「準言語の活用」である。中島氏は、光市母子殺害事件の本村洋氏を模範的な例として挙げている。すなわち、どこまでも冷静に、激情することなく、しかも激情的な言葉で聞き手を追い詰める方法である。これは高度に洗練された方法である。怒ることと、怒りを伝えることとは異なる。怒らないことによって、逆に怒りが伝わることもある。