犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

エポケー(判断中止)

2007-06-01 20:20:45 | 時間・生死・人生
フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859-1938)の現象学におけるエポケー(判断中止)は、学問の基盤であると言われることがある。理論を強引に体系化しようとする学問は、抽象的で空虚な理屈の世界で完結するようになり、現実を見落としがちとなる。ここで現実が現実であることに立ち戻り、直接経験に帰ろうとする態度がエポケーである。これは「事象そのものへ!」という有名なテーゼで語られるが、実際にはフッサールではなく、ハイデガーが『存在と時間』の中で使用したものである。ドイツ観念論は抽象的な思弁に陥りがちであり、科学主義・実証主義も事象そのものを覆い隠す傾向を持っている。

フッサールの地点から見てみると、法律学の概念は、すべて抽象的で空虚な理屈の世界で完結している。それを科学主義・実証主義が補強している。社会正義の実現というイデオロギーは、正義と不正義、市民と権力者という単純な二分法をもたらす。社会正義とは、単に本人が正義だと思いこんでいるものを社会に投影したものにすぎず、すべての正義は本人の正義感に他ならない。人間の数だけ正義感がある以上、統一した社会正義の実現を目指すならば、それは独善同士の争いとなる。そこでは義憤のパターン化が起こり、学問が政治に変わってゆく。

法律の条文で捉えられた世界は、あくまでも理念化された社会である。法律家が自らの行為をエポケーしてみれば、目の前には六法全書があって、自分はその文字を読んでいること以上のものではない。ところが、理念を強引に体系化しようとする法律学は、理念化された社会が真の世界であり、客観的な世界だと思い込むようになる。この作用が、法律を事件に「あてはめる」という錯覚である。そこでは法律が先であり、人間が後である。あくまでも人間が法律の中にあてはめられる。これは、高次の世界によって低次の世界を覆い隠すという科学主義・実証主義のパラダイムの表れである。

人間は自らの表象の外には出られないが、通常は自らが表象の外に出ているものと誤解しがちである。これは人間の社会生活にとってはごく一般的なことであって、フッサールも「自然的態度」と呼んでいる。これに根本的な揺さぶりを掛けるのがエポケーという現象学の手法であり、これは「超越論的還元」と呼ばれる。これがすべての学問の基盤としての有用性を持つならば、法律学にも根本的な揺さぶりが掛かるはずである。法律学における主観性とは、権力者の恣意的な権力濫用を意味するものでしかない。客観性の客観性たる基礎そのものへの探究がなされていない学問は、政治としては意味があるとしても、学問としては表面的な思考水準を脱することができないからである。