犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

哲学の常識・法律の非常識

2007-02-18 18:39:33 | 国家・政治・刑罰
哲学が扱うのは、「人生」であり、「運命」であり、「生死」である。哲学者であるヘーゲルの理論と、法律家であるフォイエルバッハの理論の違いも、突き詰めればこの点に尽きる。現代に至る学問の細分化も、この差異に端を発している。社会における客観的なルールを探る法律学は、個人の主観的な「人生」「運命」「生死」などに関わってはいられない。哲学者は狂気というイメージで語られるが、法学者にはそのようなイメージは全くない。

しかしながら、犯罪被害者が直面する問題は、まさに「人生」「運命」「生死」にかかわるものである。法律学のカテゴリーでは手に余る。もちろん現代社会において哲学的な視点は希薄であり、狂気という哲学者に対するイメージも当然である。しかし実際には、哲学者の理論は常識そのものであり、法学者の理論のほうが非常識であることが多い。狂気を恐れずに直視してこそ、ごく当然のところに戻ってくる。これも1つの弁証法である。

ヘーゲルの弁証法の基本は、生と死である。生(Sein)はすでにその中に死(Nicht)を含んでいることによって、人生(Werden)というものがある。これも難しい話ではない。我々通常の人間であれば、凶悪犯人が人を殺しておきながら否認したり、黙秘権を行使したりすれば、腹の底からの怒りが沸き上がってくる。ヘーゲルが述べているのは、そのごく自然な心情そのものである。法律家がどんなに「近代刑法では凶悪犯人にも黙秘権を認めるのが鉄則である」と言っても、人間として腑に落ちないのは当然のことである。

法律学は、人間を肩書きとしてしか把握できない。裁判官、検察官、警察官、弁護士、被疑者、被告人、証人、被害者などである。このようなカテゴリーは、人間というものの存在を見落とす。被害者の叫びは、あくまで被害者という肩書きの叫びとして受け取られる。人間の叫びとしては聞いてもらえない。

命の重さを教えるという不可能

2007-02-17 18:21:18 | 国家・政治・刑罰
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」は、ヘーゲルの弁証法を自己と他者の矛盾と止揚として捉え、仏教の「一即多・多即一」の思想に通じる視点を開かせる。そこでは、自己は生命であり、他者も生命であることが大前提とされている。命が重いのは当然のことであって、わざわざ説明するまでもない。

我々は「命は重い」と言うことができる。また、「命の重さは体重計で計れないのに、なぜ重いとわかるのか」という小賢しい質問することもできる。さらには、「もしかしたら命は軽いのではないか」とニヒルに疑うこともできる。しかしながら、我々がこれらの行為をすることができるのは、現に命があるからである。生きている人間は「命は重い」と言うこともできるし、「命は軽い」と言うこともできる。しかし、死んでしまった人間は「命は重い」と言うこともできないし、「命は軽い」と言うこともできない。

人間が重さを感じることができるのは、当然のことながら、その人間が生きているからである。荷物やバーベルといった物理的なもの、そして責任や職務といった抽象的なものは当然のこととして、その最大の比喩である人間の生命ですら同じことである。命が重いのか軽いのかを問題にすることができるのは、生きている人間同士での話である。死んでしまった人間にとっては、もはや命の重さと言う概念すら存在できない。

ここに、人間が命のことを語れるのは、その人間に命がある限りであるという自己言及のパラドックスが生じる。この点に気付いてしまうと、もはや改めて「命は重い」と言うことすら恥ずかしくなる。論理的に、生きている人間が「命は軽い」と表現するのは背理を生じるからである。重いに決まっているものを、わざわざ重いと言うのは野暮である。言えば言うほど軽くなってしまう。

しかしながら、この当たり前のことに気付かずに生きている人間が多い。被害者遺族が加害者に対して感じる絶望も、この加害者の鈍感さに負うところが大きい。命の重さは教えられて納得するものではなく、驚きと共に感じるしかないものである。遺族が救われるとすれば、加害者がこの驚きに直面して、被害者の命の重さに押し潰される経験をしてもらうしかない。

理性と感情

2007-02-16 19:43:33 | 国家・政治・刑罰
厳罰化に反対する立場からは、「国民やマスコミは安易に感情に流されている」と言われることがある。このような主張は、理性をプラスの価値とし、感情をマイナスの価値とした上で、法律はあくまでも理性に基づかねばならないという立場を前提としている。

しかし、国民やマスコミはそこまでバカではない。大上段の原理原則の立場に立つと、どうしても他者を無知として見下す危険性がある。現に被害者の感情を消極的に捉えている人権派弁護士は、逆に冤罪事件や刑務所の不祥事においては、自らの感情をあらわにすることが多い。何年にもわたって無罪を信じて裁判を戦い続けるのは、意地と感情以外の何物でもない。

哲学の視点は、このような人間の感情を直視する。感情に流されずに理性によって客観的に法律を解釈適用することなど、そもそも不可能であることを前提として受け入れる。人間は生きている限り、喜んだり怒ったり、悲しんだり楽しんだりして、自分の人生を形成していく。このような人間存在の中で、法律学の関わることができる場面は、ほんの一部に過ぎない。この一部分だけを取り出して、それを人間存在の全体の問題に戻そうとするとき、そのひずみが被害者を苦しめることになる。

細分化した学問は、人間が人生を生きているという端的な事実に対して、部分解を与えることしかできない。近代刑法の大原則というカテゴリーは、そもそも被害者の問題を掬い上げていない。それにもかかわらず、「国民やマスコミは安易に感情に流されている」と言って厳罰化に反対し、人間の抱える問題をすべて一点から説明してかかろうとするとき、それは原理主義となる。

理性と感情を対立させて捉える二元論は、人間の自然な行動を捉え損なう。ヘーゲルが述べた「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という言葉は様々に解釈されるが、字義の通りに読めばよい。理性的でないならば、それは現実には起こっていないはずである。国民やマスコミによる厳罰化の意見は、それが感情的であることも含めて現実的であり、従ってそれは理性的である。

弁証法という逆説

2007-02-16 19:01:39 | 国家・政治・刑罰
従来の法律学の問題は、問いの立て方がはっきりしている。厳罰派の問いの立て方は、「なぜ犯罪が減らないのか」という形である。この背後には、「犯罪はあってはならない」という答えがあり、後はその方法を探ればいい。これに対して、人権派の問いの立て方は、「なぜ冤罪が減らないのか」という形である。この背後には、「冤罪は絶対に許されない」という答えがあり、後はその方法を探ればいい。内容は正反対だが、形式は同じである。

この両者が「犯罪被害者の問題をいかに考えるべきか」という問いに直面すれば、議論は混迷を極める。同じ問題文において、違う答えを前提としているからである。この論争は、いつまで経っても生産性のある結論をもたらさない。悲惨な凶悪事件が起きれば厳罰派に揺れ、無実の者が苦しむ冤罪事件が明らかとなれば人権派に揺れる。この繰り返しである。

このループから抜け出すのが、弁証法という逆説の視点である。弁証法では、問いそのものを問う。「そもそも『犯罪被害者の問題をいかに考えるべきか』という問題は、そもそもどのような問題なのか」という問いの視点を持つことである。これが自己言及のパラドックスと言われる弁証法の視点である。

法律学の従来の問いの立て方は、犯罪被害に遭うという人間の人生そのものに関わる深い問題を、浅い政治問題に矮小化してきた。何年経っても議論が行きつ戻りつして、先に進んでいないように見える原因はここにある。

ヘーゲルと西田幾多郎

2007-02-15 21:01:31 | 国家・政治・刑罰
ヘーゲル的な哲学観を基礎に、東洋思想と西洋思想を根本的な地点から融合した哲学者が西田幾多郎(明治3年-昭和20年)である。日本を代表する哲学者であり、「善の研究」などで広く知られる。西田哲学は、二律背反の止揚というヘーゲルの弁証法を基礎としつつ、仏教の禅の思想を取り入れた独自の思想である。その真髄は「絶対矛盾的自己同一」であり、般若心経の「色即是空 空即是色」にも通じるところがある。

ヘーゲルや西田幾多郎は難しくても、般若心経であれば我々にも簡単に理解できる。それは、我々人間が生きている限り、誰もが必ず老い、病気になり、いずれは死ぬという単純な事実(四苦)を直視しているからである。目まぐるしい現代の情報化社会において、脳ドリルブームに乗って場違いとも思える般若心経が注目を浴びているのは、時代を超えた真実を指しているからであろう。全国人権擁護委員連合会が長年にわたって人権尊重の普及のための啓発活動を展開しても、国民の心に響かずに空回りしているのとは対照的である。

犯罪被害による最愛の人の死は、残された者にとって、四苦のうちでも最大のものである。最愛の人の存在は、二律背反の弁証法における構成要素であって、自分自身の存在根拠となる。従って、その死は自己の存在根拠をも危うくする。それは時に自分自身の死よりも深い絶望をもたらす。一般的な病死ですら言語を絶する経験であるが、何の前触れもない突然の犯罪被害による最愛の人の死という経験は、人間の言葉では絶対に言い表すことができない。その沈黙こそが、哲学が2000年以上にわたって考え続けても答えが出ない問題の根本を指し示している。

現代の法治国家では、殺人罪、業務上過失致死罪という具合に、人間の死を条文に当てはめて簡単に処理している。このような流れ作業ができるのは、法律学が哲学から細分化しており、法律家のほとんどが西田幾多郎など読んだこともないからである。

被害者が発する問いの意味

2007-02-14 19:36:00 | 国家・政治・刑罰
現在のアカデミックな学会においては、哲学界内部での議論、法学界内部での議論は活発であるが、哲学と法学の間における議論はほとんどない。研究が細分化されすぎて、議論の土俵そのものが別々になっているからである。しかし、現実の社会における問題は、そのような細分化された視点では大局が見えなくなる。被害者が人生そのものの哲学的な問題を抱えているのに、それを法学的な技術によって収めようとするところに、被害者の疎外状況が発生する。

哲学者の問題意識は、すべて根本の根本に遡る。なぜ自分は今ここに存在するのか。なぜこの自分は世界中の他の誰でもなく、この私として生まれてきたのか。人間は死んでしまったらどうなるのか。人間であれば、誰しも子供の頃に一度は考えたことがある問題について、哲学者はそれを問いとして手放さない。宗教的な解答に頼ってしまえば終わりである。哲学者はこのような問いを持ち続けているが、法律家はこのような問いを持たない。

法律家の問題意識では、被害者が発する問いの意味が捉えられない。遺族は、どうしても「なぜ息子は死ななければならなかったのか」「なぜ娘は殺されなければならなかったのか」と問いたくなる。しかし、法律的な答えとしては「被告人が前方不注意でブレーキをかけるのが遅れたので、息子さんは車に轢かれて死亡しました」としか答えられない。もちろん遺族はこんなことを聞いているのではない。これが法律学の限界である。法律学のパラダイムでは、質問の意味をつかみ損ねてしまう。

哲学のパラダイムからすれば、このような遺族の問いは当然の問いである。答えがないのではない。遺族が知りたいのは「なぜ他の誰でもなく、この自分の家族が被害に遭わねばならなかったのか」ということである。世界中でたった1人の自分、たった1回の人生に正面から向き合うならば、このような問いは自然に起こってくる。人間が生きるということそのものの内から発せられた問いである。また、この問いは犯人に向けられたものであると同時に、自分自身、さらにはすべての人間存在というものに向けられた哲学的な難問を含んでいる。このような問いを問いとして受け止めて、丁寧に言語化しなければ、被害者の怒りと悲しみの本質は消え去ってしまうだろう。

しかしながら現代社会では、被害者は完全に法律学の文脈に位置づけられて処理される。法廷で遺族が「なぜ娘は殺されなければならなかったのか」と述べても、その本当に意味するところは恐らく誰にも通じない。被告人の弁護士からは、「遺族はまだ精神状態が不安定であり、賠償金の話はもう少し後回しにしたほうがいい」という訴訟戦略の道具にされてしまう。法律学においては、答えられない問いは扱えない。逆に哲学にとっては、答えられるような問いは問いではない。

相対的な真実 ・絶対的な真実

2007-02-13 21:04:02 | 国家・政治・刑罰
罪刑法定主義がピンと来ない人のために、刑法学のテキストは、その沿革を丁寧に説明している。古くは1215年のマグナ・カルタに由来し、1628年の権利請願、1689年の権利章典において確立され、1789年のフランス人権宣言において結実し、近代市民法の原理として常識となったというのが一般的な説明である。

ここまで言われると、多くの学生はその通りだと納得してしまうが、伝統の長さでは哲学の理論も負けていない。罪刑法定主義を批判したヘーゲルの弁証法は、元はと言えば古代ギリシアの哲学者・ソクラテス(Sokrates、紀元前469頃-紀元前399)に由来する。マグナ・カルタよりも1600年も昔の理論である。

もっとも、古さを競っても仕方がない。哲学が目指すのは、時空を超える真実である。時間や場所、人間によって異なるものは、相対的な真実にすぎない。時代によってコロコロ変わるようなものが絶対的な真実であるわけがない。

罪刑法定主義を説明する刑法学のテキストは、独裁的権力者がその権力を維持するために恣意的に刑罰権を発動して、国民の基本的人権が踏みにじられたという苦難の歴史を詳しく説明している。しかし、このような歴史的な考察は、そのことによって自らの真理が相対的であることを示している。1215年のマグナ・カルタを絶対視するということは、その前年の1214年には、真実は未だ地球上に存在しなかったということを含意する。

このように真実が時代によって異なること、すなわち真実の相対性を認めるならば、現在において原理原則とされているものの絶対性も否定される。現在では被告人の黙秘権、無罪の推定などが近代刑法の大原則だと信じられているが、300年後、500年後に跡形もなく覆されていても何ら不思議ではない。

被害者が直面している問題は、「法律的」な問題ではあっても、「法律学的」な問題ではない。むしろ「哲学的」な問題である。人間が生きるということ、今ここで一度きりの人生を生きている人間としての根本的な問題である。権利章典やらフランス人権宣言やら、法律家の説明は何ら満足のいくものではない。被害者の人生にとっては、何も関係のない話である。

人間の生命は、どう頑張っても100年前後である。ここで300年前、500年前の理論を持ち出されても、説得力がない。一人の人間が生きるという身の丈を超えてしまい、地に足が着かないからである。そのような理論は、絶対的な真実として神格化されて、無理やり押し付けられるしかない。

単純な善悪二元論

2007-02-12 16:42:11 | 国家・政治・刑罰
近代刑法学は、罪刑法定主義によって公権力の恣意的な刑罰が防止されていることにより、国民は安心して生活できるとの建前を採っている。しかし、一般国民の実感は全く逆であり、講学的な説明には違和感を持つ。刑法が犯罪者を取り締まってくれることによって、善良な市民は安心して生活できているという現実がある。

普段から違法行為スレスレの脱法行為によって利益を上げたり、法の隙間を縫って金儲けをしている人間にとっては、罪刑法定主義は安心して行動できる指針となるだろう。これに対して、自らの良心によって行動している人間にとっては、罪刑法定主義は何らの安心感ももたらすものではない。

一般の国民にとっては、常識とかけ離れている罪刑法定主義などは無視して、自分の倫理観に従って行動していれば済む。しかしながら、犯罪被害者にとっては、罪刑法定主義を大原則とする近代刑法学の理論が大きな壁として立ちはだかる。人間として当たり前の意見を述べようとしても、それが全く通じなくなってしまうからである。

罪刑法定主義を原理原則とする刑法学のテキストは、初学者のために例え話を多く用いている。もし罪刑法定主義の遡及処罰の禁止・刑罰の謙抑性が定められていなければ、タバコが嫌いな権力者によって「タバコを吸った者は10年以下の懲役に処する」という法律が制定されて、今までタバコを吸ったことがある人が刑務所に何年間も送られる恐れがある、といった話が大真面目でなされる。

罪刑法定主義の有用性を説明しようとすると極端な例に流れがちになるのは、その思想が公権力への高度の不信感に基づくからである。この立場は、恣意的な刑罰を行う権力者とそれに苦しめられる市民という単純な二分論、善悪二元論に基づいている。公権力は濫用されるものであるから、市民によって抑制しなければならないというものである。自らは善の側に立ちつつ、悪を監視しなければならない、監視すべきだという当為(Sollen)である。

このような単純な図式からは、検察官はもちろん国家権力の典型であって、市民とは対立するものと位置づけられる。そして、被害者が検察側の証人として捜査に協力したり、検察官が厳罰を求刑するように依頼したりすることは、国家権力側の行動として割り振らざるを得ない。このようなカテゴリーであるからこそ、近代刑法学は被害者の視点を完全に欠落させてきた。被害者の問題を真剣に取り入れようとすると、罪刑法定主義の構造が根本から壊れる恐れがあるからである。

これに対して、弁証法のカテゴリーも二律背反、二項対立である。しかし、善の力によって悪を改めさせるべきだ(Sollen)という善悪二元論ではない。すべての存在(Sein)は、すでにその中に対立項(Nicht)を含んでおり、それだけで完結している(Werden)。何も小難しい話ではない。我々は誰に言われるわけでもなく、「犯罪をしてはいけない」という内的倫理を有しているということである。そして、通常な人間であれば、罪刑法定主義の理論に違和感を持つという現実が存在するということである。

人間を動物のように扱う理論

2007-02-10 21:23:48 | 国家・政治・刑罰
罪刑法定主義の思想を確立したのは、ドイツの刑法学者フォイエルバッハ(Paul aul Johann Anselm von Feuerbach、1775-1833)である。同じドイツのヘーゲル(1770-1831)と全く同じ時代を生きており、両者の論争の記録も見られる。

フォイエルバッハは、法学界では「近代刑法学の父」と呼ばれ、ヘーゲルよりも重要視されている人物である。後世の刑法学に残した影響も大きい。しかし、一歩刑法学を離れれば、ヘーゲルの知名度と影響力には全く及ばない。この知名度の逆転こそが学問の細分化の状況を表している。

フォイエルバッハの罪刑法定主義の思想は、心理強制説といわれる理論に基づいている。すなわち、人々に対して「罪を犯すことによって得られる快楽よりも、罪を犯したことによって受ける刑罰の不快感のほうが大きい」ということを周知させ、この威嚇によって犯罪を予防すべきだというものである。

ヘーゲルは、このような心理強制説の考え方について、「人を犬のように扱うものであり、犬に向かって杖を振り上げ脅すのに等しい」と批判した。心理強制説、ひいては罪刑法定主義の思想は、人間を人間扱いしていないというものである。

このヘーゲルによる批判はもっともである。我々日本人の多くが引ったくりや万引きをしていないのは、別に刑法235条の窃盗罪で10年以下の懲役が定められていることを知っているからではない。自分自身の倫理的な判断によって、または被害者の立場に立ってみて、そのような行動はしたくないと思っているからである。

「厳罰化」ではなく「正常化」「均衡化」

2007-02-09 21:16:33 | 国家・政治・刑罰
「厳罰化」という概念は、もともと否定的なニュアンスを含む。刑罰の謙抑性を主張する人権派から、「安易な厳罰化や一時的な対処は根本的な解決にならない」という文脈で述べられることが多い。このような用語法の存在は、それだけ罪刑法定主義というイデオロギーが強力であることを示している。

罪刑法定主義は近代司法の原理原則とされる。刑事法に関する議論は、この原理原則を疑いえぬ自明のものとし、これを大前提の絶対的なものとして、そこからすべての話を進めている。このように、ある原理原則について自ら疑うことをせず、それを絶対視して譲らない立場を原理主義と呼ぶ。

もちろん罪刑法定主義は宗教ではない。しかしながら、被害者を初めとする多くの国民の常識との乖離に直面した場合の解決法として、問答無用で「近代司法の原理原則」を大上段から持ち出す姿勢は、すぐれて宗教的である。しかも一神教的である。すべて先に答えがあり、そこから一歩も動こうとしない。

法律学がこのような傾向を有するのに対して、哲学はすべてを懐疑の目で見る。もちろん近代司法の原理原則であろうが、刑罰の謙抑性であろうが、すべてを疑う。罪刑法定主義という大原則を自明のものとし、思考停止に陥ることは、哲学者としては最も遠い態度である。

「厳罰化」という概念には、特定のイデオロギーからの強いバイアスがかかっている。「正常化」もしくは「均衡化」と表現するのが適切だろう。