犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

命の重さを教えるという不可能

2007-02-17 18:21:18 | 国家・政治・刑罰
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」は、ヘーゲルの弁証法を自己と他者の矛盾と止揚として捉え、仏教の「一即多・多即一」の思想に通じる視点を開かせる。そこでは、自己は生命であり、他者も生命であることが大前提とされている。命が重いのは当然のことであって、わざわざ説明するまでもない。

我々は「命は重い」と言うことができる。また、「命の重さは体重計で計れないのに、なぜ重いとわかるのか」という小賢しい質問することもできる。さらには、「もしかしたら命は軽いのではないか」とニヒルに疑うこともできる。しかしながら、我々がこれらの行為をすることができるのは、現に命があるからである。生きている人間は「命は重い」と言うこともできるし、「命は軽い」と言うこともできる。しかし、死んでしまった人間は「命は重い」と言うこともできないし、「命は軽い」と言うこともできない。

人間が重さを感じることができるのは、当然のことながら、その人間が生きているからである。荷物やバーベルといった物理的なもの、そして責任や職務といった抽象的なものは当然のこととして、その最大の比喩である人間の生命ですら同じことである。命が重いのか軽いのかを問題にすることができるのは、生きている人間同士での話である。死んでしまった人間にとっては、もはや命の重さと言う概念すら存在できない。

ここに、人間が命のことを語れるのは、その人間に命がある限りであるという自己言及のパラドックスが生じる。この点に気付いてしまうと、もはや改めて「命は重い」と言うことすら恥ずかしくなる。論理的に、生きている人間が「命は軽い」と表現するのは背理を生じるからである。重いに決まっているものを、わざわざ重いと言うのは野暮である。言えば言うほど軽くなってしまう。

しかしながら、この当たり前のことに気付かずに生きている人間が多い。被害者遺族が加害者に対して感じる絶望も、この加害者の鈍感さに負うところが大きい。命の重さは教えられて納得するものではなく、驚きと共に感じるしかないものである。遺族が救われるとすれば、加害者がこの驚きに直面して、被害者の命の重さに押し潰される経験をしてもらうしかない。

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