犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

単純な善悪二元論

2007-02-12 16:42:11 | 国家・政治・刑罰
近代刑法学は、罪刑法定主義によって公権力の恣意的な刑罰が防止されていることにより、国民は安心して生活できるとの建前を採っている。しかし、一般国民の実感は全く逆であり、講学的な説明には違和感を持つ。刑法が犯罪者を取り締まってくれることによって、善良な市民は安心して生活できているという現実がある。

普段から違法行為スレスレの脱法行為によって利益を上げたり、法の隙間を縫って金儲けをしている人間にとっては、罪刑法定主義は安心して行動できる指針となるだろう。これに対して、自らの良心によって行動している人間にとっては、罪刑法定主義は何らの安心感ももたらすものではない。

一般の国民にとっては、常識とかけ離れている罪刑法定主義などは無視して、自分の倫理観に従って行動していれば済む。しかしながら、犯罪被害者にとっては、罪刑法定主義を大原則とする近代刑法学の理論が大きな壁として立ちはだかる。人間として当たり前の意見を述べようとしても、それが全く通じなくなってしまうからである。

罪刑法定主義を原理原則とする刑法学のテキストは、初学者のために例え話を多く用いている。もし罪刑法定主義の遡及処罰の禁止・刑罰の謙抑性が定められていなければ、タバコが嫌いな権力者によって「タバコを吸った者は10年以下の懲役に処する」という法律が制定されて、今までタバコを吸ったことがある人が刑務所に何年間も送られる恐れがある、といった話が大真面目でなされる。

罪刑法定主義の有用性を説明しようとすると極端な例に流れがちになるのは、その思想が公権力への高度の不信感に基づくからである。この立場は、恣意的な刑罰を行う権力者とそれに苦しめられる市民という単純な二分論、善悪二元論に基づいている。公権力は濫用されるものであるから、市民によって抑制しなければならないというものである。自らは善の側に立ちつつ、悪を監視しなければならない、監視すべきだという当為(Sollen)である。

このような単純な図式からは、検察官はもちろん国家権力の典型であって、市民とは対立するものと位置づけられる。そして、被害者が検察側の証人として捜査に協力したり、検察官が厳罰を求刑するように依頼したりすることは、国家権力側の行動として割り振らざるを得ない。このようなカテゴリーであるからこそ、近代刑法学は被害者の視点を完全に欠落させてきた。被害者の問題を真剣に取り入れようとすると、罪刑法定主義の構造が根本から壊れる恐れがあるからである。

これに対して、弁証法のカテゴリーも二律背反、二項対立である。しかし、善の力によって悪を改めさせるべきだ(Sollen)という善悪二元論ではない。すべての存在(Sein)は、すでにその中に対立項(Nicht)を含んでおり、それだけで完結している(Werden)。何も小難しい話ではない。我々は誰に言われるわけでもなく、「犯罪をしてはいけない」という内的倫理を有しているということである。そして、通常な人間であれば、罪刑法定主義の理論に違和感を持つという現実が存在するということである。

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