犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者が発する問いの意味

2007-02-14 19:36:00 | 国家・政治・刑罰
現在のアカデミックな学会においては、哲学界内部での議論、法学界内部での議論は活発であるが、哲学と法学の間における議論はほとんどない。研究が細分化されすぎて、議論の土俵そのものが別々になっているからである。しかし、現実の社会における問題は、そのような細分化された視点では大局が見えなくなる。被害者が人生そのものの哲学的な問題を抱えているのに、それを法学的な技術によって収めようとするところに、被害者の疎外状況が発生する。

哲学者の問題意識は、すべて根本の根本に遡る。なぜ自分は今ここに存在するのか。なぜこの自分は世界中の他の誰でもなく、この私として生まれてきたのか。人間は死んでしまったらどうなるのか。人間であれば、誰しも子供の頃に一度は考えたことがある問題について、哲学者はそれを問いとして手放さない。宗教的な解答に頼ってしまえば終わりである。哲学者はこのような問いを持ち続けているが、法律家はこのような問いを持たない。

法律家の問題意識では、被害者が発する問いの意味が捉えられない。遺族は、どうしても「なぜ息子は死ななければならなかったのか」「なぜ娘は殺されなければならなかったのか」と問いたくなる。しかし、法律的な答えとしては「被告人が前方不注意でブレーキをかけるのが遅れたので、息子さんは車に轢かれて死亡しました」としか答えられない。もちろん遺族はこんなことを聞いているのではない。これが法律学の限界である。法律学のパラダイムでは、質問の意味をつかみ損ねてしまう。

哲学のパラダイムからすれば、このような遺族の問いは当然の問いである。答えがないのではない。遺族が知りたいのは「なぜ他の誰でもなく、この自分の家族が被害に遭わねばならなかったのか」ということである。世界中でたった1人の自分、たった1回の人生に正面から向き合うならば、このような問いは自然に起こってくる。人間が生きるということそのものの内から発せられた問いである。また、この問いは犯人に向けられたものであると同時に、自分自身、さらにはすべての人間存在というものに向けられた哲学的な難問を含んでいる。このような問いを問いとして受け止めて、丁寧に言語化しなければ、被害者の怒りと悲しみの本質は消え去ってしまうだろう。

しかしながら現代社会では、被害者は完全に法律学の文脈に位置づけられて処理される。法廷で遺族が「なぜ娘は殺されなければならなかったのか」と述べても、その本当に意味するところは恐らく誰にも通じない。被告人の弁護士からは、「遺族はまだ精神状態が不安定であり、賠償金の話はもう少し後回しにしたほうがいい」という訴訟戦略の道具にされてしまう。法律学においては、答えられない問いは扱えない。逆に哲学にとっては、答えられるような問いは問いではない。

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