犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「厳罰化」ではなく「正常化」「均衡化」

2007-02-09 21:16:33 | 国家・政治・刑罰
「厳罰化」という概念は、もともと否定的なニュアンスを含む。刑罰の謙抑性を主張する人権派から、「安易な厳罰化や一時的な対処は根本的な解決にならない」という文脈で述べられることが多い。このような用語法の存在は、それだけ罪刑法定主義というイデオロギーが強力であることを示している。

罪刑法定主義は近代司法の原理原則とされる。刑事法に関する議論は、この原理原則を疑いえぬ自明のものとし、これを大前提の絶対的なものとして、そこからすべての話を進めている。このように、ある原理原則について自ら疑うことをせず、それを絶対視して譲らない立場を原理主義と呼ぶ。

もちろん罪刑法定主義は宗教ではない。しかしながら、被害者を初めとする多くの国民の常識との乖離に直面した場合の解決法として、問答無用で「近代司法の原理原則」を大上段から持ち出す姿勢は、すぐれて宗教的である。しかも一神教的である。すべて先に答えがあり、そこから一歩も動こうとしない。

法律学がこのような傾向を有するのに対して、哲学はすべてを懐疑の目で見る。もちろん近代司法の原理原則であろうが、刑罰の謙抑性であろうが、すべてを疑う。罪刑法定主義という大原則を自明のものとし、思考停止に陥ることは、哲学者としては最も遠い態度である。

「厳罰化」という概念には、特定のイデオロギーからの強いバイアスがかかっている。「正常化」もしくは「均衡化」と表現するのが適切だろう。

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