犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

アカデミズムの弊害

2007-02-23 22:16:15 | 国家・政治・刑罰
近代哲学はヘーゲルによって完成したが、その後は細分化の一途を辿っている。ヘーゲルは刑法学の教科書に登場する最後の哲学者であり、しかもフォイエルバッハの罪刑法定主義に負けるだけの役回りである。近代刑法学は、「人間はなぜ生きるのか」「人生の目的は何か」という問いを哲学に預けて、さらなる細分化に向かっている。それが犯罪学であり、被害者学である。

このような社会科学は、それだけ膨大な情報と課題を抱え込んでおり、もはや世の中全体を見渡すのが不可能な状況にある。他の領域の学問との連携など不可能に近い。学者は専門バカと言われて揶揄されるが、実際には狭い専門領域を深く探究するだけで一生かかってしまう状態であり、人間の能力を超える。

哲学を失った社会科学の拠るべき最大の論拠は、客観性である。社会科学は、社会的諸事象を科学的方法による観察・分析・考察を基にして客観的法則性を把握し、系統的な認識を作り上げることが目的となる。その客観性を保障するものは、データである。犯罪学や被害者学が独自の科学として強固な体系を築くためには、個人の独断や偏見ではなく、客観的なデータを基礎にしなければならない。かくして、データによる仮説の提示、仮説のデータによる検証という学問の技法が確立する。

犯罪学や被害者学の目的は、将来的に犯罪を防止し、被害者を救済することである。しかし、それを可能にするためには客観的法則性を把握しなければならず、そのためには数多くのデータが必要になる。そのデータとは、当然ながらこの世で起きる犯罪である。犯罪学や被害者学が学問として発展するためには、データとしての日々の犯罪の集積が必要である。ここにアカデミズムの弊害が生じる。

犯罪における被害の状況、その後の裁判の結果などは、サンプルとして蓄積され、将来のためのデータとされる。好むと好まざるとにかかわらず、次々とケースに分類され、学問的に分析される。それは知的好奇心を刺激する要素となり、場合によっては、「興味深い事例」や「事例の集積が待たれる」などと言われてしまう。新たな犯罪が起きるたびに、それはデータとして学問のカテゴリーに引き込まれていく。

社会科学の客観性は、何よりも将来にわたっての理論構築を目的とするから、被害者の間にはサンプルとしての互換性がなければならない。そこでは、被害者の一度きりの人生という視点は、端的に邪魔になる。そのような怒りと悲しみはどこまでも主観的なものであり、客観的な学問には取り入れられない。しかし、被害者の一度きりの人生という視点は、学問からは切り捨てられても、現実の世の中から切り捨てることは絶対にできない。

近年、修復的司法というものが提唱されているが、いまいち被害者の求めているものとずれているようである。その違和感を辿っていくと、やはり学問の細分化による哲学の欠如に行き着くように思われる。